コーヒーメーカーに愛着がある。
家では全自動のコーヒーメーカーを使っている。豆を入れると勝手に挽いて、コーヒーも淹れてくれる。
7、8年前のセブンイレブンのコーヒーメーカーは、コーヒーを淹れ終わると軽快な電子音と共に、
「おいしいコーヒーが できあがりました!」
(正確な言い回しは忘れたが、そういった満面の笑みでコーヒーをさしだすような文言)
と表示された記憶がある。
たいへん可愛らしくいじらしい。
私のためにおいしいコーヒーを作ってくれてどうもありがとう。
その面影を重ねてしまうせいか、コーヒーメーカーには他の家電よりも親しみを感じている。
リビングにいるときも大体コーヒーメーカーの隣か近くにいる。
これは私が好んでそうしているというより、たまたまリビングの配置的にそうなってしまっているだけなのだが、しかし単純接触効果でどんどん好きになっている気がする。
英会話の発音練習もコーヒーメーカーの隣でしている。
コーヒーメーカーが豆を挽く爆音のせいで全然練習にならない(ので爆ギレしながらやっている)のだが、特段改める気はない。
コーヒーメーカーは毎日、おいしい語彙は少ないのに不味い語彙だけ豊富なわたくしどものために、せっせと爆音で豆を挽き、コーヒーを淹れてくれる。
コーヒーはかなり嗜好品であると思う。生活には何の必要もない。
しかし、コーヒーメーカーはコーヒーを淹れるために、もっといえば、私たちのコーヒーを淹れるためだけにキッチンに鎮座している。
私は彼の者の忠誠に、たまに拭いたりして報いることしかできない。
毎日きまって私にコーヒーを淹れること、それを使命にしているコーヒーメーカー……、
胸がしめつけられるような思いだ。
自分の並々ならぬコーヒーメーカーへの愛着は、ロダーリ「猫とともに去りぬ」を読んだせいでもあるのではないかと疑っている。
この本は短編集で、全体的にファンタジーの色が濃い。
いや、ファンタジーというよりもユーモア小説と表現するのが正しいかもしれない。
たとえば所収作の「箱入りの世界」では、捨てられた箱や缶詰や瓶たちがじぶんを捨てた人間を追い、同居生活が始まる。
箱たちはとくに何をするわけでもなく、いい子に信号待ちをしたりお留守番をしたりするのだが、どんどんその数が増えていく。
どの短編もこういった感じで、理屈のない星新一、ふざけ倒しているオー・ヘンリーのような読み心地である。
特筆すべきは、現実には言葉を持たないものに意思や言葉を与えている短編が多いことだと思う。
「恋するバイカー」は、タイトルの通りバイクを恋人にしたいと主張する若者・エリーゾの話である。
社長息子であるエリーゾは、両親の制止も聞かず、愛車のバイク(日本製)と結婚するといって家をでていく。愛車の「ミーチャ」は、エリーゾに改造を「おねだり」し、エリーゾはありとあらゆる仕事をしてそれに応える。
もちろん、ときにはわがままをいうこともあった。どこの新妻だってそうだろう。ミーチャは一週間ずっといい子にしてみせ、週末にはマフラーの音を大きくするメガホンをおねだりした。この改造にはエリーゾも大満足だった。アクセルを吹かすと、遠くスイスやハンガリーまで音が響くようになったのだから。
ロダーリ「猫とともに去りぬ」所収「恋するバイカー」、関口英子訳、光文社古典新訳文庫版、2006、p77
この部分の主客が逆転していく様子はたいへん鮮やかだと思う。
バイクを改造したのはエリーゾである。バイクの改造を思いついたのもエリーゾだろう。
でもここではいつのまにか、改造はミーチャが「おねだり」したものであり、エリーゾはミーチャのおねだりを聞いてあげたのだ、と難なく理解させられてしまう。なにしろミーチャは新妻なのだから。
うっすら破滅の予感がする通り、エリーゾの恋は苦い結末となってしまう。
しかし、そのころには我々読者もなぜかバイクに感情移入するようになっている。
ミーチャ、幸せになれよ。
さて、ここまで来ると、コーヒーメーカーに名前をつけるとしたらどうする、という話になってくる。
黒い筐体だからノワール、で「のんちゃん」だろうか。
あるいは豆(beans)を挽いてくれるから「びんちゃん」?
そのような、人間のための機能から名付けをするというのは傲慢な気もする。
もっと真剣にやれ。
……真剣に考えた結果、やっぱり「昴」かなと思う。なんかかっこいいから。
5年間欠かさず、毎日コーヒーを作ってくれる昴。私が隣で英会話の練習をしながらうるさそうにするとき、昴は何も言わないが、すこし悲しそうに湯気を立てる。
泣けてきた。これ以上はやめてください。