学生の時分、「自分史」なるものを書かされた記憶がある。
何歳の頃だったか忘れたが、とにかく幼少の頃から今に至るまで、自分の人格形成に寄与したものを文章化する?というようなものだったと思う。
人格形成中の若い人間にそんなことをさせてどうするんだ、と思うし、当時も本当に嫌だなあと思ったことは覚えている。
余談だが、当時通っていた教育機関は「人格」なるものに多大なる熱意を抱いており、毎年心理検査を受験させられた。
毎年受験するとどうなるか?
おろかな学生ども(というか、私と一部の人間)は検査を元に移り変わる自己の理解を深めるのではなく、毎年恒例「心理検査の結果を操作する実験」タイムと捉えるようになる。
のちに、社会でも心理検査で入る資格がきまる(!)ような場所があると知り、あの教育機関は善意から、本当に操作の方法を教えようとしていたのではないか、と疑っている。
いまでも自分のことを順序立てて、あたかも一貫した信念があるかのようにふるまうのは苦手である。
だから入社試験の際の自己アピールやら、MBTIやらが苦手だ。
たとえばある一瞬の出来事について、そこにまつわる色々なもののお話――記憶、連想、あるいは冗談を話すことはできる。
起承転結をつけることだってできる。
しかしながら、これまでの自分の行動遍歴をすべてある起承転結や信念やパターンに押し込めると、半身がずたずたに切り落とされているような心地がする。
物語は好きなのだが、あまり現実をストーリー立てて話したくない。
脱線し、留保し、括弧をつけ、脚注をつけ、内部リンクを貼りたい。
語り終わりたくないし、語り始めたくない。
たとえば高校生の頃、さいごに私の進路をきめたのはダイニングテーブルの下で見たテレビだった
(ダイニングテーブルの下は涼しいので夏はだいたいそこにいた)。
そのテレビはオオサンショウウオを特集していて、川の中をオオサンショウウオがいっしんに歩いているところを撮っていた。
川というか清流で、周りは苔や細かいシダのような植物が生えていて、オオサンショウウオは水に浸かってぴかぴかと光っていた。黒と茶色の中間のような色で斑点のような模様があった。
なんて美しい動物なのか。
どうして人間はオオサンショウウオではないのか、どうして自分はオオサンショウウオではなかったのか、と思い大泣きした。
当時いくつか進路について思うところはあったのだが、このとき「もっともオオサンショウウオに近い進路」に進むことにきめた。
オオサンショウウオに近い進路って何?
こんな話をしても誰も理解できないと思うが、よりプラクティカルで、具象を触りうる分野に進むべきだと思ったのである。
私の選んだ進路は全くオオサンショウウオではない(オオサンショウウオという進路はない)。
その後もべつにオオサンショウウオの研究をしたわけではないししようとしたわけでもない。
しかし私は私の考える、最もオオサンショウウオになれるような場所に行ったのだ。
ストーリーと呼べるようなものはない。
面接で、私ははきはきと「この分野の研究に興味があります」と述べた。オオサンショウウオのことは誰にも言っていない。
ストーリーを話すとき、そこには語られないものが存在する。
もちろん語られないものが正しいとか、語られないものこそが大切ということはまずない。「主題」に対して大切なものをえらびとるとき、人間はだいたい素晴らしい勘を働かせる。
しかし、語られないものにも瞬間がある。
瞬間は永遠である。
「瞬間は永遠」は、私の好きなファンタジーである「はてしない物語」からの一節だ。
はてしない物語はほんとうの果てなき物語である。
物語の区切り区切りに、「でもこれはまた別の物語である」という一節が加えられる。そこから無数に物語が分岐し、伸び、あたかも世界樹のようにはてしない物語を包みこんでいくというつくりになっている。
"別の物語"はじっさいに本編で語られることはないにもかかわらず、語られない透明な枝が伸びていくのだ。
望んでいることがあるとすれば、ストーリーが取りこぼさないこと、とくに論理が通じないものを見逃さないこと、なのだと思う。
枝をあらゆる方面に伸ばし、すべての瞬間について私を包み込んでくれることなのだと思う。
私の自分史を書くとするならば、今日蹴った小石の感触、今日見た白百合のなかに黄色い花粉が散らばっていたことを漏れなく記したい。
そしてそれを間違いですとひっくり返し、内部リンクをつけ、脚注で「やっぱり嘘です」と書きたい。
彼らはなんにもならないが、私の人格は彼らの集積である。
私の人格がなにかしらのラベルで表され、1万字以上のレポートとして語られる。
私はそのようにふるまうだろう。もちろん私は一貫した転職の理由をはきはきと述べるだろう。
いっぽうで私はふと立ち止まって、ビルの側面に飛行機が映って飛んでいく様子をしばらく眺めるだろう。
私を立ち止まらせるものはそれしかないからだ[*1]。
しかしそれはストーリーではない。
他人に話して聞いてもらえるものではない。
それは人生であり、生活である。
[*1] やっぱり嘘です。