顔はめパネルが好きなのかわからない。
顔はめパネル、ありますよね。駅とかに。
あれの前を通ると必ず写真を撮ってしまう。ちゃんと顔を入れて撮る。1人だったら後ろの人に撮ってもらう。
積極的にコレクションしているわけではない。顔はめパネルのために全国各地を巡ろうなどとは思わない。
でも行った先に顔はめパネルがあれば、場所が箱根でもバリ島でも月面でも地獄でも写真を撮ると思う。
その点にかけて、私は自分への信頼がある。
しかし、やっぱり好きなのかよくわからない。
写真だってまあ、撮るけど別に印刷したりはしないし、顔はめパネルフォルダに写真を集めていますというわけでもない。
この世から突然顔はめパネルが全部なくなってもべつに困りはしないと思う。
似たカテゴリに属するものはいくつかある。私はこのカテゴリを「からし」と呼んでいる(あったらうれしいが、別になくてもよい)。
このカテゴリには、ほかにご当地スタンプ、シール、ハンドクリーム、文房具(とくにノート)もろもろなどが属している。
あったらちゃんと傍に寄るし、嬉しいのだが、趣味と言えるほどでは……というものごと。
自分でやる代わりに、すごくシールが好きな人とか、顔はめパネルが好きな人のブログとかを読んでいいな、と思っている。
何かを探し集めることは幸福だと思う。
つねにどこかに「集めるもの」を探すことは、ある意味じぶんにもう一つの目を与えることに等しい。その目は誰にも奪われない、不可逆のものだ。
ジェニー・オデル「何もしない」は、物質主義、効率主義、生産性が重視される現代社会で"nothing"(原文タイトル。何もしない"do nothing"ではなく、有用ではない、何者でもないという意味がかけてあると思われる)であることの意義を問い直すエッセイ群、論考である。
オデルがこのエッセイの中で、バードウォッチングについて考察する一節がある。オデルはバードウォッチングに慣れるにつれて、鳥の「いそうな場所」がわかるようになり、それを探すようになったのだという。
カラスはレッドウッドや松の木の上のほうにとまっていたし、トウヒチョウは停めてある車の下を走り回るのが好きだった。私は葉を落とした木が池に半分沈んでいるのを見かけたら、ゴイサギがいないか探した。ミソサザイモドキはいつでもイバラの茂みのなかにいるので、甲高い鳴き声がすると、まるで茂みそのものが鳴いているみたいだった。そこにはミソサザイモドキがいるのではなく、「ミソサザイモドキのイバラ」があるだけだった。私はヒメレンジャクの好物の木の実(ときどきそれを食べて酔っ払っている)を注意して探すようになり、虫まで大事にするようになった。以前は地元のトレイルを歩いている最中にしょっちゅう追い払っていたブヨは鳥の食料にしか見えなくなった。
ジェニー・オデル「何もしない」、第六章 思考の基盤を修復する
ある時点で、オデルは「鳥」そのものではなく鳥にまつわる環境、つまり木、虫、菌、そして人間を含むその他いろいろなもの――オデルが言うところの"コンテクスト"――に注意を向けている自分に気づいた。
何かを真に理解するためには、そのコンテクストにまで注意を向けなければならないということは直感的に理解できる。だが、私がここで強調したいのは、鳥にかんして私が経験したプロセスが空間と時間にかかわるものだったということだ。私が気づいた関係性やプロセスはすべて時間や空間と密接なかかわりがあった。知覚する存在である私は、生息地や季節などのヒントを手がかりにして、目の前の種のことや、その種がそこに存在する理由、それらがそこで何を、どんな理由でしているのかを理解していた。意外にも、ソーシャルメディアの個人的な体験の何が問題なのかを解明するのに役立つのは、フェイスブックが私たちを憂鬱にさせる仕組みについての研究ではなく、このような経験なのだ。
ジェニー・オデル「何もしない」、第六章 思考の基盤を修復する
論考はここからソーシャルメディアの時間的・空間的「コンテクスト」のなさに展開する。
この論考も面白いと感じたものの、手前の「コンテクスト」論にたいへんな魅力を感じた。
オデル言うところの"コンテクスト"というのは、ある視点を持っている人だけに輝いて見えるエリア、のようなものに思える。
たとえばオデルならイバラが輝いて見えるだろう。そこにはきっとミソサザイがいる。
シールが好きな人なら、広大なシール売り場で目当ての売り場になんとなく直行できるだろう。シールの並びからだいたい担当者の思考が読める。
あるいは顔はめパネルが本当に好きな人なら、駅に降り立った瞬間、いや降りる前、家を出た瞬間からわかるのかもしれない。
観光情報の担当者が変わり、ホームページが更新されていた。私にはわかる。今から行く場所に、顔はめパネルが、ある。
他人からしたらとんでもない部分に意味を見出しているようにも見えるが、その人にとってはもちろん意味がある。
探し集めているものと周囲のものとの関係性、コンテクストが見えているのだ。
そしてその人にとっては、コンテクストを持つ「周囲のもの」は、探し集めるもののための手がかりのように見えるだろう。
他の誰にもわからない。
でも彼の人には意味が見えるのだ。
オデルがたとえバードウォッチングをしなくなったとしても、レッドウッドを見れば「ああ、カラスだ」と思うだろう。
たとえ顔はめパネルに飽きたとしても、ある駅で「ここにあの顔はめパネルがあったな」と思うだろう。
そうでなかったころには戻れないし、その視点は誰にも奪うことはできない。
探し集める人は幸福であると思う。
そういうわけで何かを探し集めてみたいな、顔はめパネルはどうかな、と思うのだが、やっぱり自分が本当に顔はめパネルを好きなのかわからない。
なんでなんだよ。
なんでそこには自信がないんだ。
うすうす感づいてはいるのだが、私はどちらかというと「探し集めている人」そのものを探し集めている節がある。
まったく理解できないコンテクストの話を聞くのがたのしい。
たとえば私は全然やったことないゲームの攻略サイト、さらに掲示板とかを見るのが大好きである。そこにはなんかよくわからない注意書きとか、なんかよくわからない激論が交わされている。
何の役に立つのかわからない。でもおそらくは、重要なことなのだ。
楽しい。