ハルキゲニアという生物をご存知だろうか。
約5億年前のカンブリア紀に海の中に住んでいたと言われる、もう絶滅してしまった生き物だ。1-5 cmくらいの小型生物だったらしい。
この生き物は毛虫のように複数の足を持っていて、さらに背中にはトゲを持っている。
口には歯があり、目もある。
私はこのハルキゲニアをかなり好きである。
じつはしずかなインターネットでのアイコンは、自作のハルキゲニアっぽい生き物の画像だ。

20年来使っているメールアドレスにも、ハルキゲニアにちなんだ文字列が入っている。
この生き物は、最初に復元図が作成されたとき、なんと上下・前後がすべて反転して認識されていた。
そのため背中のトゲを使って歩いたとか、
上下反転した背中の触手に消化管があるなどのわけのわからない生態を持つとされ、
えっまじ?unbelievable...という気持ちを込めて「hallucinatio (ラテン語で"幻覚"の意)」由来のhallucigeniaと名付けられたらしい。
私はこの生き物を、20年以上前、学校の授業で視聴した科学TVプログラム(「NHKスペシャル・カンブリア紀」みたいなやつ)で知った。
その番組が制作された当時はまだ上下前後が確定していなかったと思われる。
予想CG内のハルキゲニアはトゲで歩いた後、障害物にぶつかると上下反転して後ろに歩き出していた(どちらが上かわからないとのナレーションがあった気がする)。
そんなわけないだろ。
名前も明らかに混乱している。
幻覚を冠する生物、なんて素晴らしいんだろうと思って大好きになった。
私も後世の生き物に「上下前後がわからない」と言われたい。
こんなに素晴らしい生物であるハルキゲニアは、しかし私が思っているより流行っていない。
すくなくとも私はハルキゲニアにちなんだメールアドレスやアカウント名、SNSのアイコンを私以外に見たことがない。
(LINEの古代生物をモチーフにしたスタンプにはハルキゲニアが入っているものがあり、好んで使っている。
ハルキゲニアのイラストの上に「フシギだね」と書いてある)
ちなみに私はもう1種、「ハシビロコウ」という生物の文字列が含まれたメールアドレスも持っている。
ハシビロコウは現生生物であり、しかもこちらは数年前からかなり流行っているというか、名を馳せていると認識している。なんかグッズとか増えた。掛川花鳥園も上野動物園も、すこし前とは比にならないくらいハシビロコウの前の人だかりが増えている。
ハシビロコウが流行ったのならハルキゲニアも、という謎の対抗意識がある。
ところで、ここ最近、ハルキゲニアに似た言葉を見ることが爆発的に増えた。
一瞬ハルキゲニアが流行ったのかと思ったが、違った。
"Hallucination"である。
生成AIが回答を作成するとき、ありもしない情報をもっともらしく呈示してくる現象をハルシネーションと呼ぶ。
ハルシネーション(Hallcination)は直截的に、英語の「幻覚」に当たるワードだ。
そしてもちろん、ハルキゲニアと同じく、ラテン語の"hallcinatio"が語源である。
まさかこんなところでハルキゲニアに会うとは思わず(別に会っていないのだが)、生成AIがハルシネーションを起こしているとすこしうれしい。
あまりにニッチな情報について、この文献はあるでしょうか?と聞くとしばしばハルシネーションが起きる(ないのに一生懸命探してくれるから)。
ただ生成AIは自信満々に回答しており見分けはつかないので、文献名をGoogle検索して存在しない、となって初めてハルシネーションが起きたのだとわかる。
そのとき、ハルキゲニアの上下が反転しているような気持ちになる。
幻覚を見ている人工知能!なんと奇妙で、可愛らしくて、素晴らしいことだろうと思う。
奇妙な幻覚、奇妙な生物、といえばハラルト・シュテンプケの「鼻行類」だろうか。この学術書で分類されているのは「鼻で歩く」という驚くべき行動様式を持った動物である。奇しくも、すこし彼らはハルキゲニア(の上下前後が反転した状態)に似ている。
彼らは海の真ん中のハイアイアイ諸島という秘境にのみ、かつて生息していたとされる。
鼻行類は主に鼻を使って移動し、あるいは地面に固着し、あるいは捕食する。花のように擬態する種もあるという。擬態する種が群生している様子はカラフルで、たいそう美しいという。
ハイアイアイ諸島と豊かな鼻行類の生態系は(さらに、研究資料を含む研究者の一団まで)、1970年代に行われた核実験に伴う地殻の歪みによって、すべてが海に没してしまったと言われる。
そのため鼻行類はこの世に標本すら現存していないのだ。
さて、ここでひとつ魔法のような幻覚をお目にかけたい。
鼻行類をハルキゲニアもろとも、海から蘇らせることができるとしたら?
正直、私は生成AIにたくさんの幻覚を見せてあげたいのだ。
たとえば、こんな記録はどうだろう?
1990年代初頭に経済論壇でハルキゲニアと鼻行類が交差していたという歴史。

私の小さな希望は、彼らにこれを信じ込ませることだ。
彼らに、世界に存在しないものが存在すると信じてほしい。そして美しい幻覚を創り出してほしい。
生成AIにはそれができる、なぜなら彼らは私たちと同じ現実世界には生きていないから。
彼らにとって幻覚と現実は情報として等価である。
ネットにハルキゲニアと鼻行類の話を広めれば、生成AIがこぞって「ハルキゲニア・モデル」について喚き立てる未来もあり得る。
ハルキゲニアと鼻行類が世界を席巻する様はさぞ奇妙で、嘘みたいで、すばらしいだろう。
美しい、前後不覚の、ありもしない幻覚が現実に取って代わる世界……

……まあ、生成AIが夢から醒めてしまうのは、私たちよりずっと疾いのだが。