昔からいわゆる「べき思考」が強い。
べき思考というのは「なんでもべき乗で計算する」という意味ではない。
「XXはこうするべき」「BBはああであるべき」等、規範意識がつよく、逸する態度をよしとしない、そのような思考パターンのことである。
英語だとshould statementsという。
たとえばバラは赤くあるべき、というべき思考を持っているとする。買ってきた花が赤いバラならよいのだが、もちろん白いバラも存在する。
少しでも自分の基準に照らして赤くないと、「バラが赤くないのはおかしい」「バラは赤くなくてはならない」と考えて、とるものもとりあえず白いバラを赤く塗るということになる。
塗ったら塗ったで大変である。「水やりはどうしよう」「雨が降ったらどうしよう」という不安が持ち上がる。
あるいは、「赤いバラを調達できない自分はおかしい」という自責、「赤いバラを用意できない兵士はクビ」という他責につながるかもしれない。
べき思考は認知行動療法の用語である。
認知行動療法は、鬱病や不安障害等に用いられる心理療法で、当事者の苦しみが物事の認知の偏りによって生じている、という立場をとる。
現実世界に起きていることは、それはもう起きていることとしてあるのだが、解釈して意味づけしているのは人間、という考え方だ。
植えてあるバラが赤くない、はいそうですねそれは白いバラなので、でも「問題」 「おかしい」「悲しい」と感じているのはあなたではないですか?
このように、べき思考は少し「偏った」見方だというのが認知行動療法の主張するところである。
別の見方の発想やこだわりへの自覚を通して、自分ルールから逸した状態を許可できるようになる。
許可できなくとも、すこしは苦しみが軽減されるようになる。というのが認知行動療法で目指されている状態である(と思う、よくわかっていなかったらすみません)。
冒頭の一行に戻ると、私がかくも「べき思考」に詳しいのは彼のものに長年苦しめ続けられており、これからもズッ友状態だからだ。
私は過去の記憶があまりないのだが、自分が家庭科の授業の際に「鍋からコンロの火がはみ出るべきではない」と同級生を批判したことだけは燦然と記憶している。くだらなさすぎワロタ。
また、過去2回無職だった際、私の頭に繰り返し現れていたのは「一刻も早く仕事を持って稼ぐべき」という強迫観念にも似た恐れだった。
あるいは今でも、「部屋がきれいであるべき」という信念から、朝4時くらいに起きて部屋を掃除していることがある。
べき思考に衝き動かされているとき、頭の裏の方で太宰治の「饗応夫人」がずっとちらついている。
この話は裕福な大学教授の夫人が、しかしお客を歓待「するべきである」という異常なほどの強迫観念から、横柄な取り巻きに取り入られどんどん疲弊して見る影もなくなっていく、というあらすじである。
奥さまは、もとからお客に何かと世話を焼き、ごちそうするのが好きなほうでしたが、いいえ、でも、奥さまの場合、お客をすきというよりは、お客におびえている、とでも言いたいくらいで、……
この話は女中の独白という形式で進み、最後にこの強迫観念に駆られた夫人に「底知れぬ優しさ」を見出す。
奥さまの底知れぬ優しさに呆然となると共に、人間というものは、他の動物と何かまるでちがった貴いものを持っているという事を生れてはじめて知らされたような気がして、……
私から言わせればこれは優しいわけではなく、ただただそういうルールであるだけなのだと思う。
自分が「そうであるべき」ルールから外れることを許せない、夫人はたいへんに厳しい方であろう。
そもそも彼女自身にもどうやってルールから外れたらよいかわからないのだ。
誰かに何かを教えるとき、「そうであるべき」と思わなくなりたい。「そうでなくてもいい」と教えたい。
現在、たまたま幼児と同居している。
幼児はたまたま私よりも遅く生まれたため、知らないことが私よりもいささか多く、畢竟私がtipsのようなものを提供することがしばしばある。
幼児が私のようにshould statementsで苦しむことがないようにと思う。
しかし、今現在まだ囚われている私に一体何ができるのだろう?
「”そうでなくてもいい”を教える」と考えるとき、先生のことを思い出す。
学生時代に楽器がそこそこ好きで、楽器を先生について習っていた。
先生は少し不思議だった。
先生の言ったことを実施すると確かに楽器が上手に演奏できるのだが、どういう仕組みでうまく演奏できるのかよくわからなかった(いまだによくわからない)。
たとえば、あなたの頭の中に小さいおじさんが住んでいるよね、と言われたことがある。
住んでいるのか?よくわからない。えっそうですかね……。
小さいおじさんがあなたを操作するみたいに演奏するといいよ、と続いた。
いったいどうして……?全然わからない。
しかし、まあ先生が言うのだから、小さいおじさんが演奏していることにすればよいだろう。
その後の発表会や、面接や、緊張する場所ではずっと小さいおじさんが私を操縦していることになっている。
一事が万事こういった感じだったのだ。
何か選ぶとき、何かをしなくてはならないとき、何かを諦めなくてはならないとき、必ず先生のことを思い出す。
自分は他者はこうすべき、と思ったとき、ふと先生を思い浮かべるのである。
先生は、「二つの道のどちらかを選ぶ必要はない、どちらもやればいいんだよ」と言った。
なんの話で言われたのか全く思い出せない。
自分がなんと答えたのかもよくわからない。
先生はshould statementsから到底離れたところにいた存在だったと思うし、先生の教え方は「こうであるべき」からかけ離れたものだった。
ただ、自分の「そうであるべき」が先生の一撃によって魔法のように氷解した……とは別にならなかった。(おそらく先生にも私の特性のようなものがわかったと思うが、咎められたことは一度もなかった。)
しかし、どんどん断片化していく記憶の中で、鏡の破片がそうするように、遠くから光が反射することがある。
氷解させることはおそらくできないのだと思うが、遠くからの光で少し暖まるときもある。
私にできるのは、”そうであるべき”をやめることではないのかもしれない。
「”そうであるべき”をやめるべき」も、もしかしたら、忘れられればいいのかもしれない。
なぜならそうであるべき、とかつて信じた頑なな子供には、確かに理由があったからだ。
環境問題の授業で、調理でもエコを心がけましょう、鍋からコンロの火がはみ出ないようにしましょう、そう習った直後の実習だったからだ。
赤の女王がバラを赤く塗ったのは、白の女王が白を使ってしまっているからだ。
確かにその通り。何も間違っていない。だからそれでいい。
バラはとりあえず赤に塗って、全部塗るのは大変だから白も残して、かわいいから赤と白を混ぜてピンクにも塗ろう。あとバラは育てるの大変だしチューリップとかアネモネとかも植えよう。
でも水やりがめんどくさかったら何もしなくていい。
そのうち雨が降って、絵の具の綺麗な沼ができるでしょう。