他に表現が思いつかないのでこう言ってしまうが、まあまあいそがしい毎日である。
プールでたまに息継ぎしながらずっと泳ぎ続けているみたいだと思う。
毎日たいへん不思議に思っているのだが、この私の・いそがしさというのはたいへんに個人的なものである。誰もこのいそがしさを肩代わりすることはできない。
しかし、「共働き・幼児子育て・核家族」みたいな属性の話をした途端、あああの話ですね、というか、とつぜんそれら全ての話になる。
個々の語りの凹凸がとつぜん均されるように思う。じっさいには私と"ママ友"の感じ方は全く異なるものであり、また全く異なるものとして取り扱われてしかるべきだ。けれどやっぱり"共感"してしまう。
妊娠はその極致のような体験で、妊娠に伴う体の変化や体調の悪さなどはかなり個人的なものだが、それが全ての妊婦に(多少の差や種類の差こそあれ)「つわり」とか「ホルモンの変化」という名前で共有されていることがいまだに信じられない。
また、妊娠した途端に体重制限とか、重いものを持つなとか、激しい運動をするな(でも運動しろ)ということをまあまあ言われるのだが、すべてが私だけではなく私の「胎児の器」部分に向けて言われているのだ。
自分の体や体験が自分だけのものではない、というのには、安堵と不安を同じくらい感じた。
いまも感じ続けている。
属性がなくなったときにどうなるか?というのを考えることがある。
きむらゆういち「あらしのよるに」(画:あべ弘士)みたいなことだ。
この絵本はある嵐の夜に、お互いの姿が見えない状態で、捕食者たるオオカミと被食者たるヤギが仲良くなってしまう、という話である。
第一作の「あらしのよるに」は真っ暗な中で二人が仲良くなり、"明日晴れたらまた会いましょう"と約束を交わして去る。
なんとそこで終わるのである。
一連のお話はシリーズもので、このあとにどうなったかもちろん続きがある。しかし、このお話自体はここで終わるのだ。
わけがわからなくなりたいとずっと思っている。
自分もわけがわからなくなりたいし、世界のわけがわからなくなってほしい。
それは、属性をじぶんからなくしたい、属性で見られないようになり属性で見ないようになりたいということなのかもしれない。
その場所では、天地が逆さ、海が陸、夏が冬、雨が晴れ、闇が光である。距離は存在しないし瞬間は永遠である。
その場所では、わたしは母ではなく、娘でもなく、クラスメイトでも隣人でもなく通りすがりの人でもない。
他でもないあなたと浴びるようにお茶を飲むことができる。
しかし、嵐はいつか止んでしまうので、その場所はどこにもない。
私が眠る前にいつも行く場所である。