誠実さ、という言葉である定義を避けるとき、それを言い訳として振りかざしていないかが不安になってきた。誠実であることが傷つけないことだと認識していた。誠実さがどこに向けられるのか、によって守られるものが変わることに、どうして気が付かなかったのだろう。
俺が準じていたのは、内在する他者への誠実さ、だったように思う。俺は外在する他者を見ていたか?ただ自分が誠実である時間、相手は待たなければならなかったはずだ。
コミュニケーションにおいて、相手のわかる言葉で喋る、というのは大切なことだ。当たり前すぎるのだが、マジでこれが大切すぎることに今さっき気が付いた。相手のわかる言葉。一般的に定義されている言葉。それが自分にまったくフィットせず、その溝を埋めるために言葉を使うことがある。俺のコミュニケーションは9割それだ。定義されるものが包括的になるにつれて、ここにこの強大な気持ちを収められてたまるか、というプライドが立ち上がってくる。一番頭を悩ませてきたのが「愛」だ。デカすぎる。いくらなんでもデカすぎるし、使われすぎている。みんな「愛」を信じていることが怖すぎて、ずっとイーーッ!の顔で威嚇し続けてきた。あなたのこの言動は愛です、と指を差されるたび「違いますが?!」と叫んでしまう。反射。もう、そういう筋肉ばかりが発達してしまっている。言葉にいつも苛ついている。押し込めないでくれ。定義されたり名前をつけることで共用のものとなり、ハッシュタグとなり、人と人が、人と事象が、事象と事象が出会い、繋がる。それには納得しているし、安心することもある。それに救われることもちゃんとある。わかることがわかる状態になるから。記号として機能するから。9は9だし、円柱は円柱。イコールで結ばれる像はわかりやすい。辞書で定義された言葉は正しい。でも、しっくりこなさが度を超えている。自分に合わない。名前をつけて、線を引いて、そこに収まることで取りこぼしたかもしれないもののことばかり心配してきた。取りこぼしたかもしれないものは、あくまで自分は損なうかもしれないもので、相手にとってはそうでない場合が多い。ままならないし伝わらないのは、相手が知らない言葉で喋ってきたからだ。自分の納得と、その瞬間の定義への不快感のために、相手との時間を寂しいものにしていたかもしれない。
俺は待ち合わせで先に着いて、遅刻する人を待つのが好きだ。それは、相手が来ることが保証されているから。宙ぶらりんになることを楽しめるのは、紐の存在が確かだから。着地点が決まっていないと怖いよ。俺が自意識の中でまごまご泳いでいる間に、相手は返ってくるものを確信して「愛してるよ」と言っているのに、それに「うん」とだけ返して、夜中にアイスを買いにちょっと遠いコンビニまで行こうと誘うことを「愛している」の返事としていた。一番近いものを自分の中で探して渡して、それに満足していた。自分の中に無いものを嘘をついて渡すのが、人を傷つける、最も不誠実な行為だと思っていた。ウワー!頭抱えのポーズになるしかない。なんでこれに気付いたのが最後に話すとわかった日じゃなかったんだろう。相手は一瞬たりとも安心できなかったかもしれない。大切にしている気持ちはお互いに伝わっていたにしろ、瞬間的な寂しさを無視して自分の中にだけある正解を渡してさ、そんなの寂しかっただろうがよ……寂しいのはつらいだろうがよ……というのをスーパーの帰り道に突然思って、上の空で味噌汁を作って、その空のままで5時間が経った。愛してるって言えたらよかったか、と思ってちょっと泣いて、でも俺はこれからも言えないのかもしれない、と思って、なんか変に悲しくて、ご飯を食べ忘れたことに気が付いた。とりあえず部屋を掃除して、寝る。