書くこと

tokio
·

今年は文章を書くんだと、酔っ払った勢いでInstagramのストーリーズで宣言をしてから既におよそ2週間が経過した。まずいのでとりあえずiPadに向かいこの文章を書いている。いや待て、一体何がまずいと言うのか。恥を忍んでまで下手くそな文章を世に晒すことに何の意味があるというのだろう。世の中に対して何か言いたいことがあるわけでも、物語を書きたいわけでもない。一つ確かに分かるのは、書くことを通じて俺は世界に接近したいと思っているということだ。自分と世界を隔てている膜のようなものが物心ついたときからずっと身体を覆っていて、それが人よりどうやら分厚いらしくて、なんとかその外に出ていってやりたいと思っている。

つまり、愛とは対象との接近であり、その実践には言葉が必要なのだ。日本酒など何も考えずに飲めば全て同じ味であるし、韓国アイドルも全員同じ顔である。そしてそれは記憶に残らない。17歳を過ぎたら、記憶に残らない経験は存在していなかったのと同じだ。

身体の真ん中に空いた大きな空洞を無意味に通り過ぎようとしていく世界を、掴み取って形にして、少しずつその空洞を埋めていくこと。俺にとって愛とはそのような行為であり、そのための手段が書くことなのかもしれないと、この文章を書きながら思った。世界と接近するということは自分自身と接近するということでもあり、こうして書くことで初めて気が付くことが確かにある。

できるだけ多くのことを愛して、多くのことを覚えていたいと思う。