相談に乗るのに最も不要なのは"自分の価値観"、だと思っている。

toksato
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僕は不思議と?ひとから相談されることが多い。気がする。本当のところはわからない。ただ少なくとも「ぜんぜん人から相談されない」は嘘になるほどには、まあまあ相談をされる。それも20歳前後の頃から。

よくわからない。よくわからないが、僕が相談に乗る時に気をつけてることがある。いや、ない。べつにこれといって何かを意識してるということはない。僕は、僕が思ったことを言うだけで。ただそれだけ、といえば、それだけ。

気をつけてることとは違うが、「気になること」はある。

解決するか、共感するか、というやつ。

あれが、どうも違和感がある。

そもそもこれは対立構造になるものではない、と思っていて。相談に乗る時点で、おそらく基本的には「共感」した方が良いと思うし。「共感したあとに解決策を出す」でも良いと思っていて。

もちろん、一切の共感を見せないで厳しくすることで事態が改善することもある。だから必ずしも共感ありきだとは思わないけど、とはいえ人間は相談をする時点でだいたい共感して欲しい生き物で。

他方で、およそほとんどの悩みに「解決」を求めてない人はいないと思う。

「いま解決策なんか求めてないし!」という人も、それは「そんなことわかってる」とか「やろうとしても簡単じゃないんだよ」というのがあって、解決策を受け付けなくなるだけで。たとえば、たったワンクリックでその悩みが無くなるなら(無くなっていいものなら)、多くの人はそれをクリックすると思う。そうして詐欺が生まれるわけだけど。

「解決」も「共感」もバラバラ個別に存在するもので、その相談に解決が必要なら出せばいいし、共感することで相手が休まるなら、それも出せばいい。どちらか片方に絞る必要もないし、両方必ずなきゃいけないでも、ない。

そういう意味では相手が解決を求めていないのに解決策を渡すことに拘る(必要だと思い込む)のは、価値観の押し付けでしかなくて。だから、嫌われるのだと思う。

「こうすれは解決できる」「この解決策をやればいい」と。それはつまり「アナタはそれを解決すべきだ」となるから。

またそれは、「そんなに簡単に解決できるなら苦労してない」という反応もあったりするが、それもまた、「本人のちょっとした話」しか聞いてないのに「解決できる」と思い込む謙虚さの欠如で。これも言い方を変えれば「(浅はかさによる)価値観の押し付け」と言えるかもしれない。

仮にそれが簡単なことだとしても、本人には難しいのかもしれない。「それ」が簡単なことかどうか決めるのは僕ではなく、相談してきた相手であって。僕が勝手に決めてはいけない。

「上司を飲みに誘えばいいよ」というのだって難しい人はいるし、本当はそれができる人でも、いまの職場だとできないことだってある。たとえば、安易に誘うと勘違いして異性問題に発展しがち、とか。わからないけど。

だから、僕は誰かから相談を受けるときには「自分の価値観などどうでもいい」と思って聞いています。

「そんなに意図なく転職しない方がいいけどな」と思うこともあれば「そんなに一つの会社に居続けるのは危険じゃないかな」と思うこともある。だけど、そんなことはどうでもいい話で。本人がそれで良いなら、それで良いのだから。

安易な転職を繰り返しても幸せな人もいる。たとえばご結婚されて幸せな家庭生活を営んだりとか。先のことなんて誰にもわからないし、何に幸せを感じるかも人それぞれで、だからやっぱりわからない。

「toksatoくんはさ、なんでそんなに他人のことがわかるの?」

と友人に聞かれたことがある。それこそ、二十歳過ぎのころに。なんで?わかんないよ僕だって。と言うと、彼女はこう続けた。

「だって、toksatoくんと話してると、いっつも"きっとそれは、君はこう思ったんだよね?"とか"その女友達ってこういう人じゃない?"っていうのが、いつもすごい当たってるんだもん」

当時はまだその自覚は無かったんだけど、僕はうーーーーーんと唸りながらこう話した。

「うーーーーーーんーーーー、もしそうだとしたら、それは"相手のことなんてまるでわからない"と思って聞いてるからかも」

相手のことなんてまったくわからない。何を考え何に幸せを感じるかなんて、聞かないとわからない。だから、相手の言葉の節々まで、どうして今こういう発言になったのだろう?それはこうだからかな?と、常に仮説を考えてるから?かも、と。

彼女は最初ポカンとしていたし、そのあとの説明を聞いてもたぶん理解してなかったと思うけど。

相手がいまどういう状況にあって、周りにどんな人がいて、何につらさを感じて、そしていま僕に話をしているのか。共感とか解決とかはあまり考えてなくて、いや、正しくは「常に両方考えて」いる。

だから、いくら相手が「愚痴りたいだけ」「共感だけしてくれれば良い」と思っていても、安易に「解決する」という選択肢も捨てない。だってそりゃ、解決できるならたぶん解決できた方が幸せだろうし。ちゃんと聞いてみるまでわからないけど。

もし、「ああ、この子はいま愚痴りたいだけなんだろうけど、こうしたら解決できそうだ」というふうに思えば「では、どうしたらその解決策をこの子が実行できるだろう?」と考えたり「まずは話を聞いてもらうために、存分に共感しよう」と思ったりする。

また、問題の根源を取り除くことだけが「解決」ではなくて。

「そういうひどい人がいるから、そうじゃない人のありがたみがわかると思うんだよね。そうじゃない人、つまり僕らにとって大切な人が輝いて見えて、見つけられる。そう考えると、ひどい人もとりあえず居ればいいしね。

まともに向き合うほど時間の無駄だから放っておいた方がいいよね。その時間を、見つけた大切な人に使った方が幸せだろうし」

とか、言ってみたり。

それで、現在の環境の捉え方が変わって、世界が変わることもある。変わったのは本当は世界ではなく本人なのだけど。

 

だから、僕は相談に乗るときに自分の価値観が最も不要だと思っていて。

解決型か共感型かも、考えてなくて。

相談に乗るときには、相手がどうで、僕がその人に何をできるか、しか考えてない。

僕が相談に乗るときに考えてることは、たったひとつなんですよね。

「どうしたら、相手が笑顔になるか」

どっかのブログのタイトルになってますね。

@toksato
事業会社勤務のWebディレクター(元制作会社勤務)。Web業界から専門学校の先生に。そしてまたWeb現場に戻った「むめいWebディレクター」。フロンターレサポ。 ブログ書いてます → toksato.hatenablog.com 質問募集 → querie.me/user/toksato