僕が担当していたWebサイトがリニューアルし、先日公開した。
いや、正確には僕は最初の戦略立案、サイトの構造設計やコンセプト、目指すべき方向、必要なコンテンツの整理までやって、画面構成案(ワイヤーフレーム)以降の制作は部下さんたちがつくったのだけど。
ただ、そのサイトの最終チェッカーは僕であり、言うなればプロジェクトリーダー(≒オーナー)とかプロデューサーに近い役回り、というのがわかりやすいかもしれない。
僕はもう、立場的にもキャリア的にも怒ってもらえなくなってしまった。
いや、いまだって何かを大きくミスしたりおかしな仕事をすれば上司だって同僚だっているので、怒られたり文句を言われたりするだろうし、何より責任を問われることにはなる。だけど、そもそもそんな大きなミスや失敗をしないぐらいのことは、もうできる。
とはいえ、少なくともWebディレクターとして僕にツッコミを入れられる人というのは、キャリア的にも、仕事のクオリティ的にも、周囲にはいないと思う。
ぼくがすごいとかえらいとか、そういうことを言いたいのではなくて。ただただ、僕はもう誰かに起こってもらえる立場ではなくなってしまった。
だけど、誰が怒らずとも、何かをアウトプットすれば、必ずそれを受け取った人の"反応"というフィードバックがある。
Webサイトをリリースすれば、それはもうむしろダイレクトに反応が返ってくる。ユーザーの行動という形で。
リニューアルしたそのサイトは、おおむね、良い傾向が見られる。だけど、僕が期待したほどの結果は出ていない。くやしいし、そして現実を突きつけられる。ユーザー、いや、お客さんのために考えたサイト、コンテンツ、UIが、響いていない。
行動ログの多くは、それなりに好意的な結果を示しているけど、判断を誤ったかなと思うところ、思考が足りなかったところが見える。ああ、ここではタップしてくれないのか。ここはわかりづらかったかもしれない。この判断は結果的には間違いだった、など。
誰かに怒られたり、間違いを指摘されたり、あなたのやったことはこういうダメなことだ、と言われるのはつらい。僕はもう怒られなくなってしまったけど、若い頃は本当に怒られてきた。人間として価値が薄い、というようなことも言われてきた。たしかにつらかった。
だけど、冷静に考えてみれば、いまの方がよっぽど怖いと思うんですよね。
先輩とか上司とか、怒るかもしれないし、人格否定をするかもしれない。でも、それは先輩や上司が間違っているのかもしれないし、直接言ってもらえるなら、そこをなおせばいい。そうしたらきっと言われなくなる。
世に出したそれを、使ってくれる人、楽しんで欲しい人が楽しんでくれない。それが如実に、なんのオブラートにも包まれず提示される。お前の判断はまちがっていたのだ、と、言い訳のしようがない形で、目の前に現れる。おそろしい。
上司や仲間に怒られている方がよっぽど楽だったなと、思う。お客さんに、あいつはわかってないなんて言えないし、もうそれを言わなきゃいけない時点で、敗北は決定してるのだし。
でも、まあ、しょうがないかなと思うんですよ。
だって、僕は全力でやったもの。それは、常に120%を発揮するとかそういうことではなくて。チームのマネージャーであり、他の案件も見なきゃいけない僕にとって、一生懸命考えることも、あえて考えすぎないこともまた正しい判断であり、仕事であって。
僕は「日常」という制約と保つべき平穏のなかで、やりきったと思う。本当はもう少しだけでも意識を強めに持てば防げたかもしれないけど、その意識を持つという判断に至らなかったこともふくめ、やりきった。
やりきったなら、それ以上はないわけで。
それで、こういう結果が出た。おおむね良い傾向にあり、だけど、期待したほどの成果は出ていない。そこに、僕の判断の誤りや、行き届かなかった点がある。それが、結果として僕に提示された。だけど、それ以上はないのだから。
良いも悪いもない。もしかしたら、僕以外の誰かは出来上がったサイトを否定するかもしれないし、僕のがんばりや能力が足りないと言うかもしれない。でも、僕にはこれが全力だったのだから、僕の、僕自身に対する評価に良いも悪いもない。僕は100メートル10秒で走れないけど、精一杯走ったのならそれがベストタイムであって、良いも悪いもないのと同じように。
現実を突きつけられるのは、楽なものではないとは思う。
だけど、どのみち現実はその一つしかないのだし、実際のところそれに良いも悪いもないのだから。精一杯やったらこうでした、でしかなくて。じゃあ、次はどうしましょうか、でしかないもの。自分のそれに、自分が良いだの悪いだの言ったところで、誰にも関係がないし、自分の評価としても意味がないし。もし、自分に対して怒ったり悪い評価をするのならば、それは「全力を尽くさなかったとき」だけのはずで。
運もふくめて、良い結果を出すためには全力を尽くすしか、できることはないのだから。
全力を尽くしたのなら、じゃあ、自分がんばったね、結果が届かなかったのなら、次の行動を考えれば良いよね、だけで。
プロジェクトの結果が芳しくなかろうが、上司や先輩に怒られようが、そもそもある程度はわかっていたはずで。だって、僕は全知全能ではないもの。自分に至らないところがあったり、自分の行動を好意的に受け取らない人だっているのも当たり前のことで。その現実が目の前にあわられたところで、そりゃ、まあそうだよねぇ、というもののはずで。
そう、だから、そのために常に全力を尽くすべきだと思うんですよね。
全力を尽くせばこそ、どんな結果が出ようと「しょうがないよね」「全力でやったのだから、まあいいでしょ」「っていうかまあ、そういう結果も、やる前からあり得たよね」となれるわけで。
だから実は、ちょっと嘘をつきました。
僕は、このサイトリニューアルの結果を怖いとは一度も思ってません。
だって、全力でやったから。その結果が出て、おおむね良い傾向だけど、期待と違ったところがあった。じゃあ、そこを改善すれば良い。足りなかったところと、仮説が間違っていたところと。そうしたら、また違う結果を見ることができる。
だから、本当はワクワクしています。楽しい。ああ、一生懸命やってみたけど、ユーザーは、いや、お客さんは、そう思うのか。わかった。じゃあ次はこうしてみるよって。また、お客さんに受け入れられないかもしれないですけどね。でも、それもまた、楽しいですよね。一生懸命やったら、そうやって教えてくれるんだから。
だから、誰かに怒られることもあるかもしれないけど。
だけど、全力でやったならいいじゃん?って思うんですよ。
結果に対していろいろ言う人はいるだろうけど、自分は、自分のことを「まあ、しょうがないし、がんばったならとりあえずそれでいいじゃん?」って。
だからね、「常に全力を尽くす」って、実は良い結果を残すためのものじゃないと思うんですよね。
全力を尽くすからこそ、「正しい自分の姿」という現実が目の前に現れる。
「正しい自分の姿」を知っているから、全力を尽くした結果にも納得がいく。だって、自分の能力を知ってるわけだから。そうして、さらに正しい判断ができるようになっていく。ああ、いま、自分はここにパワーをかけるべきだ。いや、この案件にそんなに没頭してはいけない、と。
好ましくない結果が出たり、誰かに指摘されたことが辛いとしたら。
それは、自分の現実をちゃんと見えてないから、なのだと思う。
たとえば、僕は太っているので、太っていると言われてもとくに辛くない。だって、そりゃそうだもの。
でも、だからこそ、全力を尽くしたのならとりあえずもうそれでいいじゃん、って思います。
知らない自分が出てきて、いや、本当は知っていたけど見ないふりをしていた自分がでてきたとして。でも、それでいいじゃんって。
その先に、未来の新しい自分があると思うから。