その通知が、"おめでとう"の価値を下げる。

toksato
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最初に書いておきます。

僕はこの記事に、ひとつの盛大な嘘を紛れ込ませています。

 

さて、そんな僕の誕生日は12月。つまり今月。

 

43歳になる。歳をとったもんだ。40代なんて思いっきりおじさんだと思うが、いや、見た目はまごうことなきおじさんなのだけども。ただ、中身というか精神性がおじさんかというと、よくわからなくなってくる。自分(の中身)がおじさんではないと言いたいわけではなくて、はて、おじさんってなんだっけ?という。

まあ、そんなことどうでもいいんですけどね。"おじさん"なんてのはラベルであり、属性であり、他人がみた時にどう思うかであって。わざわざ僕が自分を定義することもないし、おじさんであるときもあれば、そうでないときもあるのでしょう。わからんけど。

そんなわけで、もはや大してうれしくもない誕生日が来る。

昨今のインターネットでは、当日に通知が来たりする。誕生日おめでとう!とか、どう見ても自分たちが儲けることしか考えてないバースデー割引クーポンとか。

FacebookなどのSNSでは、友達にも通知を届けてくれたりする。僕の誕生日も、SNSで繋がっている人に届いたり、X(Twitter)のプロフィール画面を開くと風船が飛びかったりする。そうして、「誕生日おめでとう!」というメッセージやコメントが届く。

「誕生日おめでとう!おげんきですかー?また近いうちゴハンでも行きましょう!」

なんて。人とのつながりを維持するにおいて「定期的に連絡を取る」というのはとても大事なことだし、転職や転校をするとなかなか関係を維持するのが難しくなるのも、それを証明していて。その現実において、こうやって何かのきっかけで連絡が取り合えるというのはとても良いと思う。これがきっかけで同窓会が開かれたりすることもあったり。

しかし、ふと思うんですよね。

 

「はて、これは本当にそんな素敵なものだったっけ?」

 

と。

たくさんの友人知人がいて、その多くと繋がれるのはインターネットの利点であるし、遠方の友人ともその距離を感じさせずにコミュニケーションが取れるというのは本当にすばらしい。1年間、ワーホリで海外に行っていた友人が帰国したとき「結局ずっとネットで連絡しあってたから、なんか遠くにいた実感がないな(笑)」とみんなで話してたっけ。

だから、やっぱりインターネットは素晴らしい。その関係の維持に、きっかけをくれる通知も、やっぱり良いものなのだろうと思う。だけど、僕らは、そんなにみんなの誕生日を覚えていたっけ?そして、それってそんなに重要なことだったっけ?と思う。

誕生日なんか覚えてるのは親友とか恋人、家族ぐらいで、すべての友達の誕生日まで覚えていなかったし、覚えてなくてよかったし、それぐらいの距離感がよかったとも思う。いや、それが近くなっても、べつに問題はないんだけどね。

だけど、その通知は、「誕生日を覚えてくれていた人」を見失わせる。

SNSでつながっている人に、自分が誕生日であるという通知が飛んでいく。その通知が来て「おめでとう!」をくれた人と、通知がなくても同じ言葉をくれた人と。どっちが重みのある言葉かと問われれば、これに疑問を持つ人はいないと思う。

でも、誕生日の通知はその両者を同列に扱ってしまう。もしかしたら、その「誕生日おめでとう」は、通知がいかなくても覚えていてくれたのかもしれない。だけど、SNSで繋がっているとそれがどちらなのかわからなくなる。

SNSの誕生日通知は「自分の誕生日を覚えてくれていた人がいる」という体験を奪ったんですよね。

数年前のあるときから、僕は通知が来るそれに返答をするのを、つまり「誕生日おめでとう!」と伝えるのを少し悩むようになりました。僕に、この人をお祝いするほどの権利があるだろうか?本当に誕生日を覚えてくれていた人を紛れさせても良いほどに、僕ってここでおめでとうって伝えていいんだっけ?と。

たぶん考えすぎで、もらった相手はたぶん、嬉しいのだと思う。

というか僕も、もらうぶんには嬉しいは嬉しい。だから、通知を受けて僕にお祝いの言葉をくれる人が嫌いなわけでも、まちがってるというわけでもなく。それはそれで、とてもありがたい。だけれど、事実として、その通知によるおめでとうは、もうひとつの大切なおめでとうの価値を見えづらくするのもまた事実で。

そもそも、僕はもう自分の誕生日を嬉しいとも思っておらず。まあ、40年ぐらい前のこの日に産まれたんだなぁとは思うけど、それ以上でもそれ以下でもなく。

今月に僕は43歳になるのだけど、じゃあ、その誕生日とその前日で僕がそんなに違うのかというと、ほぼなにも変わらない。42歳の誕生日からすれば、365日目と366日目でしかないのだから。そのたった1日に意味を見出す、というのがもう僕には無くなってしまった。

あるとすれば、それは両親への感謝ぐらいで。誕生日がありがたいとすれば、40年も楽しい人生を送れたのは産んでくれた親がいたからだし、記念日としても記憶のない僕自身よりは「43年前のあの日」として捉えるのは親の方だと思うし。

だから、母親から毎年お祝いのメールが来るのだけど、僕は毎年その返信メールに「産んでくれてありがとう」と返しています。それこそ、1回も忘れずに僕の誕生日を覚えてくれている唯一の人に。

繰り返すようだけど、SNSの誕生日通知が悪だとは微塵も思わないし、それに合わせてお祝いのメッセージを送る人がまちがってるなんて全く思っていません。それはそれで、とても素敵なことだと思う。

 

だけど、その通知によって失っているものがあること。

通知がなくても覚えてくれている人がいること。

そしてときには、そんな人を見つけるために"通知のない世界"に思いを馳せてみるのも、良いんじゃないかな?と。

 

だから、冒頭に書いた「嘘」というのは、それです。

僕は数年前から、SNSから飛ぶ僕の誕生日通知を切りました。

誕生日のお祝いコメントをくれる人は一気に減ったけど、それはそれで、大切な人がよく見えて。

幸せな世界ですよね、これも。

@toksato
事業会社勤務のWebディレクター(元制作会社勤務)。Web業界から専門学校の先生に。そしてまたWeb現場に戻った「むめいWebディレクター」。フロンターレサポ。 ブログ書いてます → toksato.hatenablog.com 質問募集 → querie.me/user/toksato