これは、コロナ禍の話です。
今調べたら2021年3月でしたね。
僕は、考えに考えて葬儀に行きませんでした。孫であり、少しの間は近くに住んでたのに。いま、1番か2番か、ぐらいには距離の近い「祖父と孫」だったんですけどね。でも、自分としては「弔う」とか「偲ぶ」ということを考えたら、いま葬儀に出るのは違うと思って、あのときはやめました。
あの日、あのとき、ぼくは葬儀には出ないことにした。
訃報を聞いたそのときからずっとずっと考えて、実はあの夜はあんまり眠れないぐらいには考えた。でも、結論出ず。
出社してランチで外に出て(そうすることで何かが切り替わったのか)、パッと答えが出た。
いや、答えが出たというより、自分が問題のすげ替えをしていることに気づいた。
「葬儀に出て親と顔を会わせるべきか」「会わないでくべきか」みたいなことをずーっと考えていて、なんなら「まあ、さすがに行くか・・・」っていうところまでいったんだけど。
けれども、僕が本来考えるべきは親と顔を合わせるかどうかではなく、「祖父を偲び、送り出すためにはどうすべきなのか」を考えることで、葬儀に出る/出ないはその手段に過ぎない。
手段の是非を問う前に、まずなぜ葬儀に出たいと思うのか、何のために葬儀に行こうとしているのか、ということこそをまずちゃんと考えないといけなくて、そのために必要なら葬儀に出れば良いし、他の手段があるなら出なければ良い。
そうすると、一気に思考がクリアになったんだけど、では「偲ぶ」というのはどういうことなのか。
そもそも「葬儀」とは何のためにやるのか。
調べてみると、どこをみても「葬儀とは、遺族のためにやるもの」なんだよね。巷でよく言われてる話。
まあ、そりゃそうなんよね。つき詰めていけばいくほど、故人にもう意思はないし、故人からこちらに何かが返ってくるわけでもない。
ま、所詮は「お気持ち」なんだけど、だからこそその「お気持ち」こそが大事で。僕がいま一番しなければならない(それは、おじいちゃんを思う僕のために)ことは、葬儀に出ようが出まいが、祖父のことを思い出し、感謝したり語りかけたりして、ちゃんと見送る、サヨナラをすることで。
見送るためには、もちろん実際に祖父に会い、火葬場でそのときを待つのが最も良いとは思うんだけど、それは「良い」というより「わかりやすい」「難しくない」というだけで、会わなきゃできないわけでもない。
僕は僕で、僕なりに祖父のことを思い出し、悔やみ、ありがとうを伝えればいい。
それに、たった1日、故人のことを思い出すことよりも、いつも、何度も、たとえば空を見上げて思い出すことの方が、何倍も本人は喜ぶんじゃないかな、と思ったんですよね。(実際、僕はいまそうやって、たとえば通勤の朝の空を見上げて祖父や祖母に話しかけています)
もちろん行きたかった。
こんな状況じゃなきゃ考えもせず葬儀に出てる。
実際、ほぼほぼ「行く」という結論に達してた時間もある。でも、達し切らなかった。行くという判断に寄れば寄るほど、かならず両親の姿が現れる。コロナにかかった両親、とくにもう70を超える父親の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
これはおそらく、その昨年、外でお酒を飲んでいる時に父が倒れて救急車に運ばれた姿を、しかも2度も見ているのが大きいのだと思う。結果的に身体は健康で、重い病気もなかったんだけど、僕が思っているよりはるかに、僕の脳裏にはあの姿が焼き付いているんだとわかった。
もし自分が、たった一回、父親に会ってしまったがために、コロナをうつしてしまったら。もうだいぶガタがきている父はほぼ間違いなく命を落とす。そんなことになったら僕はもう生きてられない。
たしかに確率としては1%にも満たないと思うし、妹からも「そんなにすべてを怖がってたら何もできなくない?」と言われたんだけど。だけど避けられるものならば避けるし、とくに、僕は週3で「東京都心」なんて人がわんさかいるところに通ってる人間で、単純な確率でいうなら神奈川の湘南や、奈良(伯父の住居)に住んでる人の何倍もリスクが高いはずで。
この状況が永遠に、もしくはあと10年続くとなったら諦める。それはもうどうしようもない。コロナは怖いけど10年会わずなんてのは無理だし、その間に別の病気で死ぬ可能性だってある。
でも、当時はそうじゃないと思っていたし、いつかはちゃんとしたワクチンだってできると思う。予防接種だってできると思う。だったら、僕はそれを待つ、という判断をした。
もちろん、やっぱり葬儀には出たい。出たいが、いま僕が最優先すべきなのはそれなのか?親に対する(僕が極力抱えたくない)リスクを背負ってまで、葬儀や弔いという「ありきたり」な形式に沿うことが、僕が出すべき結論なのか?となったとき、答えはNoでした。
当たり前だけど親には、とくに祖父の実の娘である母には申し訳ないと思ってました。きっと、息子(孫)も横にいて一緒に見送って欲しいと思っているはず。その気持ちはとてもわかるし、それが悪いとも、鬱陶しいとも思わない。
ただ、それでも僕にはできないし、これ自体は完全に僕のエゴなんだけれども、僕は、僕のやり方で偲ぶことにしました(まあ、よくよく考えれば葬儀というそのものがエゴでしかないんですけどね)。
まあ、もう亡くなった人より今生きてる人の方を取るっていう話で、そう言われたらまったく否定もできないんですけどね。
そうして、僕は葬儀の日に、実家の最寄り駅までは、実は行きました。神奈川の藤沢駅というところなのだけど。
祖父・・・いや、じいちゃんが生前、「PCを買いたいから、そういうのに詳しい、サトくん(toksatoの"サト"であり、じいちゃんはいつも僕をそう呼んでいた)一緒に行こう」と言われて、うん、いいよ、と予定を合わせてビックカメラに行った。
そのあと、「サトくんコーヒー飲もう。奢るから」と言って近くにあるベローチェに入った。
そう、だから葬儀の当日、僕は実家には帰らなかったし、葬儀にも出なかったです。
でも、やっぱりどこかで弔いたい、じいちゃんのこと考えたいなと思って、そう、あのとき2人でビックカメラのあとに行ったベローチェに行きました。
これはそのとき、1人で撮った写真です。
※残念ながら、写真に写ってる子は僕でありません(笑)僕とはまたべつの孫であり、そして僕にとってもものすごく可愛かった僕の従兄弟です。でも、それも良いですよね。じいちゃん、幸せそうだ。僕が産まれた頃に同じように抱き抱えられた写真も見たことあるのだけど、じいちゃんはほとんど同じ顔してました(笑)
弔うことも偲ぶことも、いろいろな形があっていいし、もし故人に意思があり、悲しむとしたら。
それは、「忘れられる」ことじゃないかな、と思うんですよね。
だから僕は、なるだけ祖母や祖父を、いや、じいちゃんやばあちゃんを思い出し、話しかけることで、彼らを偲び続けたいなと思いますね。
どこかで元気だと良いなぁ。