【イシイの場合】
酒にタバコに女にゴルフ。ギャンブルは種類を問わずオールジャンルで嗜むが、ここ数年はすっかりパチンコ一筋に落ち着いた。
当たりのほうが少ない古いパチンコ屋の古い台で、金と時間こそ無限に溶けていくが、誰かの力量に左右されるわけでもない、競い相手がいるわけでもない賭け事は、他人に攻撃性を抱かずに済むから、ストレス発散にはちょうどよかった。
古い顧客との付き合いは上々だが、代替わりした企業の若社長や部長どもとは、どうにもそりが合わない。
なんだ、このおっさん。いつまで昭和のつもりだよ。そんな彼らの心の声は、自分の被害妄想や自意識過剰ではないだろう。
思い出すたびにイライラして、つい懐のタバコと携帯灰皿に手が伸びる。
禁煙が推奨され、若い奴らは電子タバコを愛煙する時代だ。住宅地近くの用水遊歩道に、喫煙スペースなんてあるわけがない。
ポイ捨てしないだけ俺はまともだ、と心の中で呟きながら、イシイはタバコに火をつけた。
どこかの誰かの車が擦った跡が残るガードレールに寄りかかり、ふう、と一息。すぐ下の分水路からは、鼻につく臭いがする。
春には花見スポットとして、それなりに賑わうこの道も、葉桜の時期を過ぎれば寂しいものだ。自治体の掃除すらろくに行われないドブ川には、誰かが投げ捨てただろうゴミ袋が浮かんでいた。
そろそろ潮時なのだろうか。
若いころに立ち上げて、バブル崩壊やリーマンショックも乗り越え、それなりに成長させた事業だが、もう、自分自身が時代の流れについていけない。
夢を追って旅立った一人娘は、海の向こうでの生活を満喫していて、親の会社を継ぐ意思などないから、会社はたたみ、少し早いが、隠居生活を楽しむのもいいかも知れない。
そんなことを考えながら、イシイは厚い雲が月を隠す夜空を仰ぎ、紫煙を吐いた。
先週接待をした取引先の社長には、跡を継いでくれる予定の子供がいると、酒の席で言っていた。
今年大学を卒業し、今は他の企業で武者修行中なのだというご子息の話を聞いて、イシイは純粋に羨ましいと思った。
「今度はあいつも連れて来よう。こういうところに来たがっていたからね」という社長と、「絶対ですからね!」と約束の指切りをせがむキャストの女の子のやり取りに、「仲が良くていいですね」と笑ったイシイの言葉は、本心からのものだった。
だってそうだろう。跡取り息子とラウンジに行って、酒を飲む。それは今のイシイがどう逆立ちしたって真似できない楽しみだ。
程よくアルコールが回ったところで、仕事の愚痴を聞くのもいい。どんな酒が好きなのか語るのもいいだろう。
あけすけに、こういう女の子が好きなのか? 俺もだぞ、なんて揶揄って、父さんには母さんがいるだろ、と怒られて。それでも、彼女なんだ、と照れ臭そうに家に連れてくる子は、ラウンジの指名とは全然違う、背が高くてお尻が大きい女の子で。
プライベートでは「父さん」と呼んでくれるけど、きっと社内では「社長」。
嫁の気持ちファーストだから同居はしない。でも、週末には孫を連れて帰ってきて、「ほら、じいじにちゃんと挨拶する」と、抱っこしている子供に言って。
そうして一人前になった息子と、今度は静かなバーで飲み語らうのだ。「まさか初めて連れてってくれた飲み屋が、女の子のいる店だとは思わんかった」と苦笑する息子の背中を、お前もいつか俺の気持ちが分かるよ、と叩く。
イシイが脳内で思い描く、想像上の息子の顔は、いつだって行きつけのパチンコ屋でよく会う青年のものだった。
イシイのことをおっちゃんと呼びながらも、古い男だと馬鹿にするわけでも、年寄り扱いするわけでもなく、気さくに話しかけてくれる、愛嬌のある彼のことを、イシイはとても気に入っている。異国でひとり頑張る娘と比較しているわけではない。ただ、ああいう息子がいたら楽しかっただろうな、という、ただの所感だ。
アルバイトで稼いだ金を握りしめ、当たることのほうが少ない台で、父親か、あるいは祖父と同じくらいの年齢だろうほかの客に囲まれながら、楽しそうに打っている。それだけですでに好感度が高いというのに、年相応の若い言動に混じる、達観したような人生観のちぐはぐさだったり、年上は全員が人生の先輩だから、なんて言って、こんな風にギャンブルに夢中になってる連中にも敬意を忘れない礼儀正しさだったり、そんなの、可愛がるなというほうが無理だろう。
常連客仲間からは、イシイさん、また若い子に入れ込んで。一体いくら貢いでんだ? それも、キャバの女の子じゃなくて、パチンコ仲間の男の子とはまぁ。それはなんだい、はやりのパパ活ってやつかい? と、最初の頃こそ弄られていたけれど、イシイにとって、彼のサンドに札を入れることは、親戚の子供にお小遣いをあげる、程度のことだった。特に深い意味は特にない。
そもそも、彼は負けたときこそすっからかんだが、ごくまれに当たったときや、給料日後には、イシイに玉を返してくれる。きっと今度会うときも、「あんがとな! これ、この前貸してくれた分!」と言って、イシイにお金を返してくれるはず。決して一方的に貢いでいるわけではなく、持ちつ持たれつな関係だ。
そう、あの子はイシイの息子ではない。彼にとってイシイは友人、下手したら知り合いのおっちゃん程度でしかない。夜のお店で父さんと呼ばれながら、一緒に酒を楽しむなんていうのは、存在しない記憶だ。
気付けばタバコはだいぶ短くなっていた。イシイは携帯灰皿に吸い殻を入れ、蓋をする。その時ポツリと、大粒の滴がイシイの頬に当たった。雨だ。
そういえば夜から降り出すと、朝のワイドショーで気象予報士が言っていたような気がする。傘など当然持っていないから、これ以上濡れたくないなら走るしかない。イシイは携帯灰皿を上着のポケットにしまい、走りだそうと一歩を踏み出した
――その時。
「六桁貢いで、悠仁になにさせようとしてんの」
なんだ。
脛に走った強い痛み。滑る足元。
手をつく場所もない。落ちる。
用水路の深さ。
いや、それよりも、コンクリート。
いたい。
たてない。
いきができない。にがい。
なんだ。
だれだ。
どこにいく。
たすけてくれ。
バシャリ、バシャンと藻掻くイシイの腕から出る水音は、だんだんと大きくなっていく雨音と混ざり、次第に溶けて消えていった。