「ハサミをだれかにわたすときは,とじたまま,刃のほうをにぎって,持ち手をあいてにむけてわたしてね」と教わった記憶はないだろうか.
刃物は取り扱いを誤ると相手を傷つけかねない.だから,傷つける意図がないことの表明も含めて,安全にやり取りするために,傷つける恐れのある刃先は自分に向けて相手に手渡す.
何もハサミだけじゃなくって,刃物全般はもちろん,工具のドライバーやスキーのストックのような,先の尖ったものにも当てはめて,今日日暮らしているだろう.どれだけ便利でも,傷つける恐れのある部分は自分に向け,相手に向けないよう配慮する.
ハサミやドライバーのような物理的に傷つける恐れのあるものはわかりやすく,行うべき動作もカンタンだし,見た目にもわかりやすい.小さいこどもでも配慮できる.
ところが,無形のものになるとどうだろうか.
例えば,自己研鑽の「べき論」なんかがわかりやすい.「キャリアべき論」を振り回している不躾なキラキラマッチョ(実態は謎)を見たことはないだろうか.
「〇〇ができなきゃ年収アップはムリ‼️🙅♀️ 100 選」みたいな原色ドデカゴシック体サムネイルの YouTube を引っ提げて,自分ができているかどうかも定かじゃないのに,不安で潰れそうな真面目な人からインプレッションを巻き上げて「吾輩がいかにも令和の成功者」と言わんばかりの面構えである.
これだけわかりやすければいいけれど,実は日常の様々なところにこれと似た性質の事柄は潜んでいる.本来であれば,己に向けることで戒めたり,奮い立たせたりするために用いられる,自己研鑽の厳しい言葉としての「べき」を他人に向ける連中の狼藉が目に余る.
ハサミだって渡すときに開いたまま刃を握ってしまえば,相手が受け取るときにこちらが怪我をするかもしれない.相手を傷つけないように気をつけるったって,刃の握り方を考えないと自分が危険な目にあってしまう.
無形で鋭い自己研鑽の刃なんて,丁重に取り扱ったとしても,人を傷つけかねない.それを人に向けるなんて,こいつらに人の心があってたまるか.
真面目なみんなが上を向いて,更なる上の存在を目指して,日夜,自分自身に自己研鑽の刃を向けているのである.成長のためと息巻いて,自身が傷ついていることにも気づかず,他人の基準で自分の心に刃を立てている.
一度,高くなった基準は下がらない.自己研鑽の刃は簡単に鋭くなるくせに,いくら使ってもナマクラにはならない.
他ならぬ自分自身で傷つけた心と体は誰が労わってくれるのか.成長と競争の恐怖に追われるものにとって,基準を下げたり,休みを取ったりして自身を労ることは並の覚悟では難しい.
迫り来る自身の存在価値消滅の恐怖に耐えられるのか? 他人の言葉に踊らされ,自分の心に他人の基準を踏み込ませてしまったとき,それらを追い出すのは難しい.このときにはすでに,呪いにかけられている.
安全基地という概念をご存知だろうか.どんなことがあっても自分を守ってくれると信じられ,危機に瀕したときに逃げ帰ることのできる存在だ.
多くの場合は生まれてまもなく親がこれを担うが,年を重ねて大人になるにつれ,親以外の存在でも担えるような関係性が築かれていく.
大人になってからの強すぎる覚悟は自身を傷つけるに留まらず,こうした安全基地さえも放り投げてしまうこともある.自分では気づかないうちに意固地になっていて,おかしな方向に身を委ね始めたことに気づけない.
この綻びにつけこんで,自身の欲求を他人で満たそうとする不躾な連中が寄ってくる.概ねこいつらは,刃物を相手に向けて渡してきて,傷ついたのはお前のせいだと叱責さえする.
真面目が取り柄なら尚更,自分の至らなさに胸を痛め更なる"自己研鑽"の道に引きずり込まれてしまう...... 自身で決めたと思っていた成長や自己実現は,本当に自分で決められているだろうか?
他人が作り上げた理想像がいかに合理的で社会の成功者に見えたとしても,それは社会あるいはその誰かが求める"人財"でしかなく,他人の人生の養分になっている可能性はないだろうか?
たしかに,社会で成功したいなら,社会の標準に乗るのが一番早い.でも,そうして他人からもわかりやすい成長ラインに乗ってしまえば,成長したあなたを活用して,他人がなんらかの利益を得ることもやりやすくなる.
せっかく無理をしてがんばってきたのに,せっかく不得意なことを克服してきたのに,みんなのためを思ってがんばってきたのに,思いもしない使われ方をして心が折れてしまうことだってあるだろう.
周りの人ができているから自分もできるはずだ,自分の力が足りていないから成長しなきゃと日々戦う中で,心身に不調を来たすこともあるはずだ.それに蓋をしてがんばり続けて得られるものもあるだろう.
なのにも関わらず,それで失うものもたくさんある.場合によっては得るもの以上の大きさのものを失うこともある.ここのタイミングがかなり重要な分岐点になるはずだ.
頼れる人はいるだろうか? どういう人を頼ろうとしているか?
ここで注意すべきポイントは,指導してやるという姿勢の人間は受け入れないことだ.傷んだ気持ちを受け止めもせずに前向きな話をしてきたり,サッと蓋をして次の話をしてこようとする人間は一旦距離を置いたほうが安心だ.
その状況を使って何か自分に有利なことを企んでいる人が含まれていたこともあった.これについては,疲れている頭では区別がつかず,底なし沼に入り込んでしまうきっかけになりかねない.
どのようにしてこの状況を打破するか? 無理をしすぎないことに他ならない.多少の無理は成長のためだという主張も大いにわかる.しかし,取返しのつかない無理をおして得た成長は,大きな歪みをつくる.この歪みを受け止めて生きる覚悟がなければ,心や体のシグナルに素直に生きて,こうした歪みとは無縁の生活を送るべきだろう.
心や体のシグナルに素直になれば,刃物を向けてきている連中と手を差し伸べている者の区別がついてくる.自分で自分にむけていた刃物の数もわかるだろう.痛んだ心と疲れた体でひとり邁進するのは拷問にほど近い.とてもではないが,自己啓発情報なんかを見ている場合ではない.
では,どうすればいいというのか?
どうか,頼れる人にありついてほしい.単に優しいだけではない,便利な刃物を注意深く刃の側を握って渡してくれる人に.