生成AIに関連するいくつかの議論を見ていると、平均的なネット民ってその……こんなにその、アレだったっけ……?? となる。今日は「画像生成AIはクリエイターの絵を『学習』しているのではなく、『画像を継ぎ接ぎで組み合わせてあたかも新しい絵であるかのようにしているだけ』だ」と主張している人と、それを「いえ、『学習』という言葉はAI分野における専門用語であり一般的に想像される成長的な意味合いを持ちませんので、その主張は間違っています」と窘めている人のブログを読んだ。で、そのブログのリンク付きツイートに、「『学習』という概念を捏ね繰り回して自己正当化お疲れさまです。」と喧嘩腰のリプライが引っさがっていた。
こわいよ〜( т т )
パルワールドのパクリ問題、ニディガの文化盗用問題、ドラマ板セクシー田中さんの脚本家原作改変問題、その他もろもろ。これらが炎上する理由に、全て「クリエイターに対する神聖視」が含まれている。各々正当性の程度はあれ、基本的には、「人が頑張って作ったものにタダ乗りするな/リスペクトを持て」が主な主張だろう。ただ、その「リスペクト」のほどってどうやって測るつもりなんだ。「その作品の平均的なファンである自分よりもリスペクトがないのならば、それは失礼です」と言うのならば、それはもうジャンケンだろう。僕もパルワールドの開発者はユーモアセンスが死んでると思うけど、それで「パルワールドはダメなのに龍が如くのスジモンバトルはOKなんですね」とか言ってる人もそれはそれで嫌だ。
感情を論理に組み込むことに失敗している人が多い。「これ、なんか嫌だなぁ」という現象に理由を見つけないと納得できないのは、人間のさがではあれど、それはあくまで「自分が『これ、なんか嫌だなぁ』と思う理由」でなければならない。ここが「この理由により、『嫌だなぁ』と思う」に変換されてしまっている人がたくさんいる。この二つは一見同じように見えて全く違い、前者は帰納的で、後者は演繹的だ。前者の考え方は「個人的な感情から論理的な一般解を編み出す」ことだけれど、しかしこれは出発点が「個人的な感情」である以上、他の人に適用できる可能性が低い、と直感的に理解できる(帰納法と演繹法を例に出したのはあくまでレトリックであって、厳密にはこれとも違うとは言える)。一方、後者は「○○なので嫌」という文法なので、「相手に原因がある」且つ「○○であることは不快なのだから、他の人もそう思うに違いない」と思ってしまえる。これを混同している人と建設的な議論ができることは、まずない。終始論理的な話をするのならばいいのだけれど、インターネット的な倫理観の話では常に「誰がどう思ったか」が議論の主軸になるので、どうしても感情を議論に組み込まないといけなくなる。「自分的にはこれは○○なので嫌だなと思ったんですが、この考えの正当性についてはどう考えますか?」と尋ねなければいけないところを、最初から「○○なので気分を害した、ふざけるな」と怒っている人が多く、冷笑フィーバーに突入する。
話逸れたけど最近のパンピーのクリエイターを過剰に神聖視する風潮はホントに嫌だぜ。
「何かを作れる」なんてことは微塵も偉くない。と思う。何か表現したいものがあって、または達成したい目的があって、それを自分の才能と努力に委ねて誰かに伝えようとするからカッコいいのだ。「何かを作れる人であること」はちっとも、なんの足しにもならない。たとえばとても優しいAさんだって、周りに困っている人が誰もいなかったら、何もせずに死んでいくだろう。
Aさんは役に立たなかっただけで、状況さえあれば誰かを助けられる可能性があった。ならば同じように、たとえば普通の人であるBさんだって、何かの状況で誰かを助けられる可能性がある。「とても優しい」ということは、「誰かを助けられるということ」の絶対的な前提にはなり得ない。
可能性の程度というのは問題ではなく、「みんながクリエイターの一般に対して期待している効果(人を楽しませる、人の心を助ける、人を感動させる、人に広い知見を与える、など)は、じつはどこの誰によっても実現しうる」ということが重要である。人を楽しませる人が好きならリアル脱出ゲームの運営でもいいし、人の心を助ける人が好きならカウンセラーでもいいし、人を感動させる人が好きなら小学校の教師でもいいし、人に広い知見を与える人が好きなら大学教授でもいい。色んな人の立派な仕事のおかげで社会が回っているし、むしろクリエイターって人種はそこからドロップアウトしかけているくらいだ。好きなクリエイターを神聖視したりするのは楽しいし、誰にも迷惑さえかけなければいいと思うが、「クリエイターであるひとは尊いひと」「創作文化は他の普通の仕事よりすぐれた人間らしい営み」とかはよくわからん。なんでクリエイターばっかりこんなチヤホヤされてんのか納得できんし、こういう話を他でもないクリエイター当事者がしているのを見たときは絶望的な、というか大爆笑だぜって気持ちになる。いま被災地を復興しようと汗水垂らしてボランティアでもやってる人のが百億倍偉い。露悪的な文章にしてしまったけど、本当に悲しく思っている。「クリエイターは偉くなんかない(=才能それ自体に、他者が感じ取れるような積極的な価値はない。何かの環境と才能の主人による何らかの志向性とともに表現されることで、初めて世界に何らかの影響を与えうる)」、というのが自分の思う前提で、そしてだからこそ「創作文化は素晴らしい」と思っている(それは論理の話とは関係なく、自分の個人的な感想)のだけど、この「創作文化は素晴らしい」という感想を論理に組み込むことに失敗し、「クリエイターは普通の人より偉い」と思っている人がたくさんいる。「クリエイターは普通の人より偉いから、創作文化は素晴らしいのだ」になって凝り固まっている人がたくさんいる。ファックオフである。特に商業作家でそれやってーるやつは終わってるよ〜ん。
「社会的な生産性・経済性のくだりからドロップアウトした、偉さ(上下関係)のない創作文化」ってものを信じていたいんだ。それは純粋な願いとして、ここ最近、ずっとある。AI生成を批判するのはいいんだけど、それが転じて「絵も描けない/文章も書けない人間がひきょうな手段を使ってる!」と言ってしまう人がいるのは、僕にはとても悲しく思えてしまう。いままで長々と訥々と語ってきたことを全部台無しにするようなことを言ってしまえば、絵や文章がやりたかったのにうまくできなくて辛くなってやめた人たちの気持ちも考えられずに刺さる範囲の広い言葉を使ってしまう想像力のない人らに、創作っていう真剣な文化へ手垢をつけてほしくない、ってのが本音だ。結局は全部生存バイアスで、すべてが努力によって成し遂げられていったなんてのは都合のいい神話で、だから、つくる人っていうのは、少なくともプロなら、「やれなかった」人たちの凛としたあきらめにも尊敬の念を持って自分の仕事に取り組んでいかなきゃいけないと思うんだけど、ん、でもこれ、最初に僕が言った「そのリスペクトの程度ってどうやって測るんすかね?」て問題と一緒っすね。じゃー僕も偏見か。まぁプラスの偏見に多少マイナスの偏見をぶつけたって許されるでしょう。あざした。