初鹿野ことなさんのことがまだ引っかかっている。陳腐な比喩をするなら小骨のように引っかかり、こぼれない。登れない。とっかかりもないのに引っかかり続けている。あんなにすごい人がいたという事実を咀嚼し続けている。
Vtuberは引退すると死ぬ(「死ぬ」ということばには「世界からいなくなる」とか「完成する」という意味がある)。初鹿野ことなさんじゃなくなった初鹿野ことなさんがいまもインターネットの、そうでなくとも世界のどこかにいて、極論、もしかしたらどこかですれ違ってるんじゃないかと思うような浮遊感がある。いや、公平に見てそんなことはありえないし、ほんとうは思ってもないので、言葉にするならこう言うのがたぶん一番伝わりやすいってだけだ。僕の持つ感覚はまだ全然違う。でも、時折、世界のどこかにいる彼女のことを考えている。それは高校を卒業して会わなくなった仲良くもないクラスメイトのようでいて、そうでない。
lainが僕たちに伝えたことと近いのかもしれない、と思う。最後、玲音は偏在するにようになった。あれと同じことなのかもしれないと思う。インターネットの本質が偏在であるというのは露骨であるようでいて案外盲点で、僕が思うに、インターネットというのは、それこそがいちばんすばらしい。
90年代のインターネットが、誰も住所を明かさず、顔を明かさず、いまよりもほとんど社会的でなかったことは、想像にかたくない。なんだったらそれは10年代のTwitterも半分はそうだったのだ。街を歩きながら、「この街に○○さんが住んでいたらどうしよう」と思う人が、同時に二人以上いる。北海道と沖縄に。それが偏在するということの意味である。
もしかするとVtuber文化の本質の一つは、ありえないガワをかぶせることで匿名性(透明性)を保持し、インターネットの黎明をルネサンスするような試みだったのかもしれない。当初、われわれは二次元的だったのだ。そう考えると、3Dモデルとキャラクターデザイン、うつくしい名前があるというだけの条件から、現実と遜色ない内容のトークを繰り広げつつ、一方で偏在する二次元であり続けた、初鹿野さんはほんとうにすごい。こんな分析をしても、なんにもならないけれど。
僕の知る限り、彼女は絶対にモデルやイラストのことを「自撮り」と言っていたし、配信ソフトの不具合は「カメラの調子」と言っていた。こんなにすごい人が既にいて、既にいなくなってしまったインターネットで、これ以上なにをしたらいいんだろう、と思うことがある。
こういうサービスを使っていると、結局インターネットにあるものはすべて匿名なのだ、と思うようになる。本人から飛び出た言葉も、曲も、絵も、詩も、物語も、ツイートも、活動も、ほんとうはすべてが、「いま現実にいるそのひと」から切り離されている。1秒前の自分と現在の自分は別人であり、大きな一つの物語によって統合されることはありえない。
僕は人気になりたいから名前を前面に押し出すような活動をしているけど、ほんとうはそんなの虚構(フィクション)なのだ、と思うことがよくある。あなたのやっていることはぜんぶウソですよ、と誰かに言われたがっていて、そんなことを言えるくらいすごい人が誰なのかを考えたとき、いつも彼女の顔が頭に浮かぶのだった。感想ください3。