バタバタとしている間に4月も10日が過ぎようとしている。満開の桜を見ていないこともあって、気づくと春は終わってしまうかもしれない。きっとわたしが生まれ育った街にいる間に、関東の桜は散ってしまうんだろう。
桜前線に追いかけられるように、地元の新潟にやってきた。理由は仕事なのだけど、本当少しだけ、駅に着いてから上りの電車が来るまでの数十分間だけ、地元に帰ってみた。久しぶりの地元は一番記憶が鮮明な20年ほど前とほとんど変わっていない。新潟駅でさえこんなに開発が進んでいるというのに、地元の駅前はまるで時間に忘れられてしまったみたいだった。鉛色の空がそうさせているのか、ひどく寂しく見える。
わたしはずっと地元に愛されたかった、という話をどこかで書いていたけれど、それはもう諦めている。過去の育った町にも、久しぶりに見る知っていたはずの景色にも、わたしの居場所は見つからないから。ずっと探していたけれど、たぶんここにはない。
会社にはわたしが選ばなかった地元に暮らし続けている人がたくさんいて、その人たちの話を聞くたびに「わたしはここでは愛されなかったのだ」と強く突きつけられる。
わたしの居場所はどこなんだろう。
そんな10代のような悩みを改めて抱えてしまったけど、あのころみたいにメソメソしてはいられない。悲しいことに居場所は自分で切り開くものだと頭で理解してしまうのは、きっと人生を長く生きてしまったせい。
それでも、今夜くらいは少しセンチメンタルに浸らせて。どんなに滞在しても、地元との距離は縮まらないともうわかっている。わかっているんだけど、どうしようもない気持ちを、少しだけ見つめていたい。
そうして太陽が昇ったあとで明日、湿度の高いこの気持ちは新潟駅に置いていくよ。