週末に推しのカレンダーイベントに出かけた。実を言うと緊張なのか何なのかほとほと嫌になっていた。そんなこと誰にも言えるわけがない。言うまでもなく推しは悪くない。ただただ自分のせいである。しんどかったんである。何もかも。だからこのイベントが終わったら本当に死のうと思っていた。直後でなくても、死ぬ準備を本格的に始めようと思っていた。禁止していた食べ物も全部食べようと思っていた。死にたいのに食べるのか?という矛盾を抱かないほど理路整然と生きられていたら、そもそも死にたいなどとは思わない。死にたいという衝動こそが矛盾なのだから。
それはそうと、まんまとイベントのあとはそんなに死にたくもなくなり、今生きているし何の準備もしていない。過食欲はあるがそれほどではない。せっかく推しにあったのに死ぬのがもったいないとか、申し訳ないとかいう気持ちではない。ただ死にたい気持ちが目減りしているだけだ。安定して「死にたい」気持ちをどこかに抱えている状態だ。死んでも死ななくてもいいかなという感じ。上を向く気にはなれないし下を見ていたいが別につらくはない。
推しのおかげというつもりはない。これはただ、長めに休みがとれたからだろうと思っている。だから浮かれない。必要以上に推しを持ちあげない。あの人がすごい力を持っていることは間違いない。だから少なからず私に影響したことも間違いない。でも「やっぱり推しはすごい!」と大声で言う気はないし、そういう気持ちの大波も起きていない。ただただ静かに、やはりあの人はすごいのだなと思うばかり。
イベントの翌日、たまたま、「ずっとこうだと思い込んでいた映画の解釈が実は間違っていた」ことがわかった。具体的には、無料で見られる10分程度のホラー映画について、中絶を痛烈に批判した内容、という考察を読んですっかりそのつもりで理解していたのだが、実はそうではなく、製作者インタビューでもそんなことは言っておらず、強いて言うなら「突然起きたどうしようもない死の危機に抗う、そしてそれを見た人が『生き延びてくれ』と思うこと、それが本当のねらいだったのかもね」という考察動画を見た。まさに私は思っていた。生き延びてくれ、と。私は年季の入った死にたがりなので、その映画を最初に見たときも当然死にたがっていた(と思う)。なのに映画の中の人に、生き延びてくれ、と願っていた。観終わったあと、人生で初めて「映画を見て手に汗を握って」いた。自分は死にたいのに、他人には生き延びてほしいのか。死がすべての解決だと信じているのに、他人には「生」を望むのか。
同じ日、ある漫画家さんの自死があった。そこにいたる経緯を、軽くだがツイッター(現X)で見ていた。よくあるマスコミ系の汚いやりとりだとだけ思っていた。不憫だなとも思ってはいた。なぜあの方は死ななければならなかった?なんでだ?思わずツイッター(現X)でつぶやいた。しかしわかっている。今回のことだけで死を選んだのではないだろう。それまでの人生の積み重ねや、年齢による(かもしれない)体調や思考の不具合、疲れ。そういったものすべてが重なったのだろう。東京から栃木に行く力はあったのだ。「死ぬことより生きることのほうがこわくなった」結果、幸か不幸か動く頭と体で死にに行ってしまったのだ。誰か止める人はいなかったのか?みっともなくてもいい、「今から死んでやるから!」と誰かに迷惑なメールをしたらよかったのに。それができる人は死なない。だって生の世界を信じているから。自分を止めてくれると、受け止めてくれると信じているから。死ぬことのほうがまだこわいから。
何も死ぬことはなかったのに。
でも自分、死のうとしてたよね?