5月5日(日) こどもの日 休み
夕方、義母に息子を預けて大阪へと出向く。インスタ繋がりの友人たちと飲みに行くためだ。彼らは哲学が好きで、日記を読み返すとちょうど一年前のゴールデンウィークに初めて対面で会ったらしい。それから年間を通して数回会っており、今日もその繋がりの延長のようなものである。
18時くらいから23時くらいまでぶっ通しで話し続けた。面白い。彼らとは読書会や哲学対話などで一緒になることがあるのだけれど、その会のぶっちゃけ話や、「話すこと」についての思いを聞けてよかった。
彼らとの話のなかで「僕は」の話をしたいよね、という話になった。「誰々がこう言っていた」「一般的にはこう言われている」ではなくて、「僕はこう思う」。お昼にSpotifyで聞いた相対性理論の話を思い出した。相対性理論自体については、あんまり理解できなかったのだが、まず特殊相対性理論ができて、その後一般相対性理論ができたという話が印象に残った。私のなかではふつう「一般」ができて、そのあと「特殊」が生まれる印象があったからだ。しかし、科学の世界において「一般」を語ることはとても難しく、一事例でも例外が出てしまえば、その理論は全体へ適応することができなくなってしまう。だから、まずは「特殊」を考える。ある絞られた条件のもとでなら、成立する理論を構築して、それを一般に反映させていく。そうしてできたのが、特殊相対性理論であり、一般相対性理論だということだった。
対話の中で出てくるそれぞれの「僕は」は、すべてそのそれぞれの条件のもと生まれた特殊な理論である。けれど、そうやっていくつもの「僕は」をやりとりしていくことで、その小さな空間のなかでの「僕たちは」ができていく。対話はきっと、お互いの“特殊理論”をやりとりして、小さな小さな“僕たちの”共通認識を作り上げていく作業なのではないか。コンプライアンスが肥大して、言ってはいけない言葉が「一般化」されつつあるけれど、時間をかけて対話を繰り返すことは、目の前の「僕は」のケアにつながるのではないか。そう思えた。
聞いたり、聞いてもらったりできる時間は愉しくて5時間という時間も相対的に早く過ぎた。