しずかなインターネット始めました。
ゲーム制作のこととか、普段考えてる他愛もないこととかを載せていきたいと思います。
先日のデジゲー博出展からずっとストーリーのプロット詰めをやっています。大まかなプロットはできてるんですが、整合性が取れてないとこの調整とか後で細かいとこ決めよ〜で放置してたところを改めて見直したり。
プロットの難解なパズルを解くために悪心苦闘しています…
何とか今年中にセリフ含めたストーリーの細部まで完成させて、来年からは見た目に注力できるようにしていきたいです。
ちょっと余談的な話なんですが、先日友達とゲーム通話している時に雷がひどくって、みんなで怖い怖いと震えていました。
通話中でノイズキャンセリングが効いてるなら、聴こえない。聴こえないってことは鳴ってないってことだから大丈夫!と励ましました。
私はこれを本気で信じてるんですが、普通は「?????」(こいつ、頭がやばいやつなんじゃ…)と思われても仕方のない発言かもしれません笑
こういう考え方をするようになったのは、学生時代にカントの勉強をしてからです。
カントは有名な哲学者で、なぜ世界はこうなのか?といった一般的な哲学的命題を考える前に、まず人間の感性や理性ってそもそも何?ということを思考していった人です。
その中で面白い考え方があって、「人間は人間の感性という枠組みの中で捉えられるものでしか現象を知覚することはできない。」もっというと、「ある物の働きを私たちは感じているのではなく、私たちの感性というキャンバスに、物が働きかける!」という仮説があります。(もし興味がある人は【コペルニクス的転回】などでググってみてください)
つまり本当に起きている現象(カントは「物自体」と表現しました)を私たちは知ることができないということです。
なのでここから考えを飛躍させて、私たちが怖い、とか不快だと思うもの(あるいは雷、あるいはゴキブリ)は、それ自体の本当の現象の姿ではなく、私たちの感性というキャンバスに描き出された結果なので、知覚しなければその恐ろしさは存在しないということになる!というりくつです。
もちろんこれは感性上の話なので、「人が死ぬボタンを押したけど、死んだ人を見ていないから死んでいない」とか、「他の国では戦争や貧困に喘いでいるけど、それを見ていないからそんな事実は存在しない」だとか、論理的に導き出されることについては適用できないというルールになります。
逆に自分達には知覚できない現象もきっと本当はたくさん存在するとも考えられますね。
このこのについて考えていると、何となく宮沢賢治の「春と修羅」の序を自分は思い出します。
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
というふうに、透明な人類の巨大な足跡が実はあるというのは(人間の知覚を超えた現象を人間がどう発見するのはいったん置いておくとして)全然あるかもしれないな〜と思ったり。
取り留めのない妄想的な話になりましたが、もし怖くてたまらない音や現象があったら、ぜひこの考え方を試してくださいね。という話でした。