PERFECT DAYS

toofu
·

PERFECT DAYS』という映画を観た。自分のこの文章を読むことで、この映画の良さが損なわれることなど決して無いと思うが、気になる人は読まないほうがいいかもしれない。

  • 総じて、とても好きな映画だった。音や光がとても気持ちよかった。もう一度観たいかもしれない。映画館の窮屈な席だけじゃなく、家の小さい画面で観ても素晴らしいと思ったと思う。

  • たぶん通常の映画よりも正方形に近いアスペクトで映されていた。画面が横に広くないからか、目に映るものが多くなく、情報量がちょうどいいのかもしれない。画面の上部に黒い帯が入って横長になった映像に対して「映画っぽさ」を感じていた自分にとっては新鮮だった。

  • この映画を観てどういう感想を覚えるべきだろうか、と少し考えてしまう。みんなが使っている公衆トイレを綺麗にしている人がどこかにいるんだぞ、と感謝や思いを馳せるのがよいのか、自分自身の何気ない日常も見方次第で美しく切り取ることができるのだぞと自分を奮い立たせるのがよいのか、何か彼の生活のポートレートから意義深いものを見い出そうと試みるのがよいのか。とりあえずつなぎがおしゃれだなと思った。つなぎで作業するのって良いよね。

  • 平山は竹ぼうきの音とともに目を覚ますが、それを観ている僕たちは、彼の立てる物音、布団をたたむ音、畳に足を擦る音、歯磨きの音、玄関の戸を開ける音、缶コーヒーを買う音で、また彼の一日が始まったことを感じる。そういう、小さな朝が連鎖する音が心地よかった。

  • 平山は無口だが、よく微笑む。彼よりよく喋る人で、彼よりも多く微笑む人がどれくらいいるだろうか。だが、彼はいつもすこし泣きそうな顔で微笑む。彼が劇中で泣いたのは一度だけだが、そのシーンを経たあと、「そうか、彼はいつも泣きそうに微笑んでいたんだ」と気付いた自分がいた。

  • まどろみのシーンで、おそらく本実型枠で打設されたコンクリートのテクスチュアが白黒になって映し出されていた。色を失った本実型枠コンクリートは木材と区別がつきづらく、Pコン跡があって初めてコンクリートであることがわかる。コンクリートであることがわかった途端にその手触りが思い出されて(本実型枠コンクリートって手触り良いのよね)、映画で手触りを感じたのは初めてかもしれない。

  • ちょうどいま円城塔の『これはペンです』を読んでいるのだけど、平山と妹、姪の関係はこれに出てくる主人公と母、叔父の関係に近いような気がする。きょうだいという、近くて遠いような相手のことを理解しきれなくて距離をおいてしまう一方で、その子供ははじめから少し遠い距離にいるその相手に親近感を覚えている。彼が自分を理解してくれる、自分は彼を理解してあげられている、と根拠のない感覚を持っている。平山と妹はただすれ違っただけなのか、どこかでなにか彼らを意思に反して強制的に分かつ何かがあったのではないかという推測も浮かんでくるが、それはこの映画の枠の外のことである。世界はすこしずつ違っている。

  • この映画にはどこか憧れとしていた日々が描かれている。朝日のなかで目を覚まし、日々の糧となる仕事をこなし、それが人々の役に立っている充足感を持ち、無駄遣いをせず慎ましく暮らし、変わらない暮らしの中で少しずつ変わる自然を楽しみ、古本を少しずつ読み進める。トイレ清掃員の仕事に憧れるかと言うとそれは別の話だけど、どこかで「自分もこうがいいんだよな」と思っている自分がいる。けれどママは「どうしてずっと同じようにはいかないのかしらね」とつぶやくし、自分も本当にそんな暮らしができるのかというと自信が持てずにいる。

  • 劇中で平山が買っていた幸田文『』という古本をさっそく Kindle で買って(僕は平山と違って電子書籍派なのだ)冒頭を読んでみたが、これもまた良さそうな感じがする。ゆっくりと読み進めようと思う。