【関心・勉強メモ】有志舎、シリーズ「問いつづける民衆史」刊行記念トーク

とらぶた隠し砦
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公開:2024/10/27

2024年10月26日(土)の夕方~

高円寺の商店街にあるシェア型書店「本店・本の実験室」にて。

いろんな意味で目から鱗がおちまくるトークだった。

熱い。地道。真剣。当たり前だが水準が高い。社会について、歴史学の役割について真摯。こんな学問の集まりがあるんだ! こんな世にも。

そして、ひとつ意義ある仕事を打ち立てようとしたら、これだけの覚悟と労働力、根気を持たねば成し遂げられないのだ、ということを目の当たりにして、震える思いだった。

このシリーズ「問いつづける民衆史」は、11人の一線の歴史研究者たちが、11年もの勉強会を重ね、今「民衆史」という視点をとる意義について会話を重ね、それぞれの分野で18世紀以降の世界史を語り直す、という出版の企みだ。

研究者はいずれも70年代生まれ。ベルリンの壁が崩壊したころに学問を始めた世代。戦後のマルクス主義歴史学が力を失い、代わりに社会史が現れその成果を素養として蓄えた研究者たち。

はじめは、有志舎の永滝稔さんと仕事の縁のあった愼蒼宇先生、藤野祐子先生が核になって「この人は」と思う研究者に、趣意を伝え、はじめは6人、それから11人になったという。

女性6人、男性5人。意図したわけではなく「これがまあ、ふつうじゃないですか」。というのが心にしみた。

この日、登壇(といっても平場ですぐ目の前にいらっしゃる)してくださったのは、シリーズ第1巻『朝鮮植民地戦争』を上梓されたばかりの愼蒼宇(シン・チャンウ)先生、フランス史の仲松優子先生、差別の問題に切り込む小川原宏幸先生、アメリカ史(ロサンジェルス)の土屋和代先生、東ヨーロッパ史の秋山晋吾先生。

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「民衆史」ときいて、色川大吉先生、鹿野政直先生、横井清先生など、わずかではあるが私も敬意を持ちながら読んだことがある(いつか全部読みたいと思い続けている)先生方の著作を思う。

だが、この有志舎の「問いつづける民衆史」は、それをそのまま「自明のもの」としてひきつぐものではない。

「民衆史」と一口に言うが、それぞれの専門領域で、その意味づけは違う。日本史で言われてきた「民衆史」が、なんともそぐわない分野もあるそうだ。

また、「民衆」というが、歴史研究者が「民衆」を代弁する権利があるのか、という問題も深い。

それぞれの専門領域にはそれぞれの研究史がある。

また誰を民衆とするのか。民衆と権力者と2項にきれいに分かれるものでないことは、現代社会に生きるイッパンジンの私たちにもわかる。

けれども、「民衆史」を掲げる意味は大きい。それはたえず、歴史研究・歴史学のあり方をチェックする意識だからだ。

歴史は史料を読み込んで研究する。だが、史料はほとんどが権力者・勝者によって遺されたものだ。過去に何があったかを知るために、そのような史料をよすがにするしかないのだが、そこに書かれていないこと、何が無視されているかを嗅ぎ取らなくてはならない。

また、「民衆史」の視座は、今の「優勝劣敗」の新自由主義の時代を、強く問い直す重要な力になる。

生きるってことは、勝ち残ることじゃない。うん。

第一巻である愼蒼宇『朝鮮植民地戦争』の序文の前に、シリーズの「著者一同」の署名による「刊行の辞」が掲げられている。

11人で勉強会を重ね、「民衆史」を、いま掲げる意義について、共同の意識を持つところまでいけて、シリーズが動き出したのだ。

史料から見いだしたことがらには安住は出来ない、たえず点検が必要になる。その現場に生きた人たちには、複雑な関係が発生しているだろう。研究者や研究のあり方もたえず点検しなくてはいけない。

そう、だから「問いつづける」民衆史なのですね。

学問の本作りというのは、ぱっと思いついて企画を立てて合わない筆者もいるのにもうテキトーに帳尻を合わせて、専門じゃないバイトの院生とか使って、予定時期までに完成させてハイできあがり! というものではないのだ~。(私は院生は「使」えないけど、ドキッ!)

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違う領域の専門家が集まった勉強会の中で、「知らない名前、知らない言葉にたくさん出会って」と、先生の一人がおっしゃったのが心にしみた。(ふつう、先生というのは利口に見えないとやっていけないので、見栄をはってこういうことは隠す人が多いと思う。自分の学問に自信があってこそ、こういう謙虚な言葉が出るのだなあ、と思った)

私はあまりにも素養がなく、勉強もものすごく足りていないので、お話や、使われている言葉がわからないところも多かった。

例えば……

(○○史という方法論が隆盛になったあと)「相対化されてしまう」「相対化されすぎ」というのは、どういうことかな、と思った。

予想して考えると、たとえば、「小林よしのりの説も一つだし、マルクス主義の人はそう見るだろうし、構造主義の人はこう言うし、みんなそれぞれだよねー」「ゼッタイなんてないよねー」「だよねー」という感じだろうか。

あと、ぜんぜん知らなかった名前。土屋先生のお話にあった、アメリカで民衆史を提唱した、ハワード・ジン。はずかしき。ぜんぜんしらなかった。1980に登場して、トランプ政権の時に批判のやり玉に挙がる形で再注目されたそうだ。

家に帰ってから検索して……これは読まねば、と思いました。『民衆のアメリカ史』『爆撃』。

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シリーズ第一巻の愼蒼宇『朝鮮植民地戦争』。

「朝鮮」「植民地」「戦争」ということばはそれぞれ、歴史の本に関心がある人なら"なじみの言葉" だけど、「植民地戦争」って何? 

それは、欧米列強+日本による植民地化と、「じょうだんじゃねえ」といって立ち上がった現地の人たちとの戦争のこと。戦争というが力の差は歴然。そしてまた、めったに記録されることはない。記録されるのは、加害者(植民者)の方に被害が顕著に出たときだけ。

「啓蒙」("原住民を文明化させてあげる!”というやつ)による、主体性の剥奪、というのも暴力として指摘されるべきで、されてきているが、もっと物理的に凄惨な暴力の数々が、列強による朝鮮半島植民化のなかで引き起こされ、そして埋もれている……。

冷戦は終わった、マルクス主義史学は終わったといわれるが、

「朝鮮はまだ冷戦続いてますからね」

という著者の言葉にハッとした。

(中学か高校?)若い生徒たちに世界史を教えているという若い先生が、この本を読み込んで、「どうやって生徒たちに伝えていったらいいか」質問されていたのが、何かびっくりだった。こんな先生いまいるのか! しかし、こんなことにびっくりするのがおかしいのだ。今の世(と私のアキラメ)があんまりなのだ。

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こんなシリーズ企画を、11年もかけて育て、伴走し、刊行にこぎつけ、トークイベントまでされる有志舎さまは、なんとすごい出版社か。

もう、「尊敬」などと私が口にするのもおこがましい。

老舗の歴史書出版社での仕事力の蓄積・研鑽、研究者・著者との信頼関係、根気、歴史への見識・素養……すべてが素晴らしい。

そしてやはり、これはそうした実力のある編集者が一人でやっている小出版だからこそ、できたのではないか、とも思える。

大きな会社なら、利益をどんどん出さなくてはいけないので、「そんな長々と勉強会なんかダメだ」「もっと早く成果が出ることをやれ」といって、打ち切り命令が出るかもしれないし、上司や上層部、同僚を説得して企画を通すまでがたいへんすぎる。それまでに邪魔されてしまうかもしれない。

「すぐに成果が出ることをやる人」=「デキル人」ということに、今の世の中はなっている。そんな現代へのあり方に対して、この企画自体が「アンチ!」になり得ているように思った。

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あー。すごい衝撃でした。

ぶるぶるぶる。

間に合わないかもしれないけど、勉強したい!!! 勉強したい!!!

私と同じくそう思う人(少数とは思うけど)のために、私は初心者向け案内書をつくってゆこう。

有志舎「問いつづける民衆史」サイト