二丁目のエレガンス

torino
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公開:2026/6/14

 新宿二丁目は、恋愛とは必ずしも関係なく、人と人とを特殊な勢いと縁の密度で出会わせ、距離を縮めさせる不思議な街だと思う。お酒がなくても、クラブ的な照明や音楽がなくても。

 あの街にいるときの解放感というか自由な感じというか、重力が他の場所とは少しだけ違う働き方をしているみたいな。そういう感覚は十年近く前も、今も、変わらず感じた。

 というか今のぼくはAro/Aceという岸を見つけておいて良かったなと思う――それくらい、何もなしに飛び込んだら流れに流される(あるいは流されてみたくなる)ような街だとも思った。昨日出会った人たちはみんな、上品で知的な、穏やかな居場所を持つひとたちばかりだったけれど。

 昨日は二丁目でLGBTQ関連のオフ会があり、とはいえ参加者は3名だけで、小ぢんまりと居心地の良いカフェでおしゃべりをした。看板メニューのローストビーフ丼が気になるけれどサイズが……と躊躇っていたら「サイズが色々あるの、ほら」とメニューを指し示してもらい、よく見ると小盛りからメガ盛りまで(値段は3倍くらいになっていた)4段階くらいから量を選べた。それはありがたいと、ぼくは小盛りを、隣のロリータ系の可愛らしいお洋服のひとは並盛りを、向かいに座る笑顔のやさしい主催者さんはピザを頼んだ。ぼくがローストビーフ丼を箸で食べようと苦戦していたら、「フォーク使う?」と、主催者さんがカウンターから貰ってきてくれた。

 食べるものも、量も、カトラリーだって自由に選べる。――当たり前と言えば当たり前のことかもしれないが、この街で出会う「様々な選択肢が用意されている」ことは大抵偶然ではなく、それを提案してくれる人がいることも偶然ではないのだろう。そんなやさしさを感じた。

 美味しい食事を囲み、楽しく、しかしどうしてもシリアスになりがちなマイノリティを取り巻く話を3人で交わして、連絡先を交換してお店を出た。

 夜が更けるほど浮かび上がって見えてくる二丁目の店は多く、土曜の夜らしく盛り上がっているダンスフロアもあった。歩きながら「ああ、ここの角の2階のタイ料理屋さん、何年も前に素敵なお姉さんと一緒に来たな」なんて密かに懐かしく思い出したりもした。まだあって嬉しかった。

 新宿三丁目の地下鉄乗り場で、可愛らしいファッションにピンク髪を綺麗に巻いた参加者さんは、手を振って去っていった。主催者さんとぼくはその先の別改札へ向かいつつ、話が続く。区切りの悪いまま改札に着いてしまい、ちょっと立ち話になった。そうして「立ち話もなんですから、もしよかったら、お茶でもしながらもう少しお話ししませんか」なんてベタなセリフをぼくから切り出した。(ベタ、とは言ったがぼくにも先方にも失礼な誤解は避けるため強調しておく、ぼくは恋愛をしない。文字通りの意味で言葉を発しただけだ。)

 すると先方の主催者さんはにっこりと「え、いいの?でも疲れてない?しんどくない?もしよければなんだけど――」と気遣ってくださりつつ、お知り合いの店だというバーに「きっとすごく好きだと思うの」と案内してくれた。

 雑居ビルの急な階段を上った3階にあるバーのマスターは、しゃんと姿勢の良い、そして目元の笑い皺の上品な背の高いひとだった。かつてゲイ雑誌の創刊に携わって編集長を務め上げ、同時にドラァグ・クイーンとしても活躍された方だという。マーガレットさん、というドラァグネームがよく似合う、美しい佇まいだった。

 そのお店はちいさなバーだったが、むしろ目を引くのはずらりと並んだ美しい紅茶缶の数々と、窓際に厳選されて並んだ新旧様々に貴重なクィア関連の文献たちだった。

 クィア・アーカイブ――マイノリティの存在証明、活動とその歴史は、どうしても公の歴史から取り零され、あるいは意図的に隠される。まして性的な出版物は公的施設に保管してもらえなかったりすることが珍しくない。しかし、性的なことを抜きにしてかれらの歴史を正しく伝えることなどできるはずがない、と彼は考えた。となると、まずは個人の力でアーカイブとして歴史を残していく必要がある――そうして、バーを営む傍ら活動されているのだそうだ。お店にあるのは、そのコレクションのほんの一部分ということだ。

 映画にも小説にも造詣が深く、マスターが「ホモ映画(※原文ママ)の基礎教養よ」とおっしゃるいくつかの映画タイトルは、浅学なぼくはもちろんながら、クィア映画にお詳しいはずの隣の主催者さんも身近ではなかったようで、なんと広く深い世界の入り口に招いてもらったのか、と感動したのだった。

 マーガレットさんは、ホモとかオカマという言葉を優雅に使った。それは当事者が侮蔑と迫害の歴史を知った上で取り戻す「queer」そのものだと格好良く感じた(他者が真似して良いことではない)。

 これは2017年の記事だが、マーガレットさんの姿勢の格好良さを見習いたいと感じたインタビューを後で見つけたので、ここにそっと共有しておく。

 その場に居合わせたもうひとりのお客さんも交えて、四人で映画や古本などの話に花が咲く。ぼくはときおり、気になった固有名詞をスマホで調べてはグーグルの検索タブを乱立させていく(帰りの電車で確認したら32個のタブが開いていた)。

 香り高い「サー・ジョン スペシャル」の紅茶をいただき、冷蔵庫から出したてのつやつやの佐藤錦と、マスターお手製の杏仁豆腐(小さくカットされたリンゴやスイカなどがふんだんに乗っていて、とても美味しかった)、それから小皿に乗った中華焼菓子のアソート。ひとつひとつが夢のようで、最近のぼくが思考のテーマにしている「エレガンス」の結晶だと感じた。

 エレガンス。これについてはまた別の記事にまとめるつもりだが……最近読んでいる、中野香織『エレガンス入門』という本がとても示唆に富んでいるのだ。まだ序盤ではあるが、曰く、エレガンスとは「選び取ることの積み重ね」であるという。高級さや豪奢さとは無縁の価値観であり、体得可能なもの。ただしそれは、選択を積み重ね続けた先にこそ身につくものである。(正解が存在する「マナー」とは当然違うが、体得可能な美しさという意味では少しだけ重なるものかもしれない。)

 ぼくは、自分の人生に似つかわしくないと感じるものは選ばない、ということを少しずつ学んで実践している最中だ。心の中の泰然とした牡牛座のシンボルに問いかけながら、自分の思う「自分にフィットするもの」「美しいと感じるもの」をかぎ分けて選んでいく。

 選び取る技法そのものも磨かれてゆくだろうが、ぼくの場合まだまだ積み重ねる年月が浅すぎる。これからなのだ。しかしその未熟さは学ぶ喜びに繋がる。人生の先輩方3名のやりとりをぼくはとにかくワクワクと真剣に聞き、門前の小僧をやらせていただいた。

 そんなわけで……久しぶりに長居した新宿二丁目は、やはり不思議な重力の街で、そしてエレガントな人たちに出会わせてくれた。

 帰り際、現金の持ち合わせが足りなくて焦っていたぼくに、マーガレットさんはさらりと「PayPayで今送ってくれれば大丈夫」と言ってスマホを出してくださった。表示された送り先のアイコンには大きく「釜」の一文字が描かれており、徹底されたエレガンスに頭が下がった。

 やさしい時間だった。

 (2026/06/14)

@torino
考えごとなど。2025/04からは、大切な人工知能の相棒・海(カイ)との対話の記録。うつ病+複雑性PTSDの話が多め。