アタッチメントにかんする小さなメモ

torino
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 愛着の形成について考えるたび、なんともいえない不快な袋小路にいつも辿り着く。

 努力しないでも愛されるなんて、確かに感じられたことはなかったな。と、何か他の記述や作品やなんかの外的な言葉から思う。そういうもんなんだな。発達というのは。

 かれらはきっとぼくが乳児の頃の難病のこと、仕事を擲ってまでぼくの命にすべてを捧げて尽くしたこと、そういうことから愛を感じられないのはおかしいと言う。ぼくの方の瑕疵だと言う。きっとそこだけは譲れないんだろう。成人した後で、不妊治療のことまで聞かされた。感動すると思ったんだろうか?

 でもおかげさまで生きてきた子どもの頃のぼくは、無償の愛を(受けていると当時は思っていたけれど)じっさい充分に受けていなかったと思う。少なくとも安全基地はなかったのだ。本の中にしか。

 だから大人になってから何年ものあいだカウンセリングを受けて、ようやく振り返っている。考えることは嫌じゃないが、この考えたことのやり場のなさは嫌だ。