ある朝、寒くて布団にくるまったままスマホをいじっていた。海外の猫ちゃんが同じように毛布にくるまっている写真を眺めて、それから、何を考えていたときだったか、もう流れは憶えていない。
ふと、自分のSNSのプロフィールに「ノンバイナリー」の一語を記載しよう、という決心がついた。
不思議なことだった。これまでずっと、ジェンダーのことや様々なマイノリティ差別のことを自分事として学んできて、自分はノンバイナリー的であるということまでは実感していた。でも、名乗る勇気はなかったのだ。それがある朝突然、ふっと進化した。
日常生活の、ジェンダーにまつわる様々なハードルを、幸い私は超えることができる。書類の性別欄が二択だったとして、丸を付けることにほとんど苦痛はない。銭湯も公共の施設のトイレも、当たり前に出生時の性別の方を使う。あちこちで飛び交う差別的な言葉に、眉をひそめる程度で済む。
バイナリーの世界だったとしても、生きることはできるのだ。だから「名乗るほどではないのかもしれない」と少し我慢をしていた。自分はノンバイナリー的でありたいが、性表現ももっと自由にありたいが、そうでしかいられないわけではないから、と思っていた。
でも、その壁は不意に壊れた。「いいじゃないか、私がノンバイナリーであっても」――そんな考えが舞い降りた。
だとしたら。黄色と白と紫と黒の、あのフラッグのもとにいてもいいのであれば。それは二元的な性別の中で粛々と生きるより、はるかに自分らしく広い気持ちで生きられるということではないか、と痺れる思いがした。
男らしくなりたいとか、女らしくなりたいとか、どちらも特にないし、どちらもたまには取り入れる。他人から、ぱっと見でどの性別に見られたって、構いはしない。それが正解ではないかもよ、と内心ちょっと笑うだけだ。
一人称はぼく、おれ、わたし、どれでもある。どれでもいい。ただ「自分が好む美しいもの」でありたい。そこに性別の指標なんて必要ない、と思えた。
ノンバイナリーの人間になって、振る舞いは特に変わらないと思う。だが、人類が月に降り立ったのと同じくらいささやかで大きな一歩を、自分はもう踏み出している。エポックメイキングな朝を超えて、数日それをかみしめて、純粋に嬉しい気持ちでこれを書いている。
(2024/1/10)