オバケと牡牛

torino
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 僕は自分のことがかなり好きだが、そんな中で時折顔を出す「嫌いなところ」はいくつかあるし、そのうちには「ああこれ、母親のキツさにそっくりだ」とげんなりしながら他責に帰したくなるものもある。そうすると尚のこと自己嫌悪のもとになるんだけれど。育ってきた環境のせいにしてしまいたくなるものもある。まさよしも言うとおり、夏がダメだったりセロリが好きだったりするのねえ。

「あの子は悪い子じゃないけど、平気で約束を破るからダメ」

 そんなふうにバッサリ自分の親友を切り捨てられて、昔は母親に憤激したし許せなかったものだった。今だってまぁ、言われればそう思うだろう。一方で、「あの子」にあたる友人とはまだ付き合いがあるが、母の失礼な言い種と全く同じ観点から、その友人のことは何割か諦めている。諦めてというのはなんというか、そこを自分と一致させるためにやきもきしたり衝突したりしてまでエネルギーを使うのはやめよう、今さら期待せんでいいよな、という楽になる諦めだ。

 しかし昨日、そのことで自分が冷たくて毒のある言葉を一気に吐いたな、と思う瞬間があり、急に自分の美しくない面が見えた気がしたのだ。一度幻滅した他人に対して、僕は愛がなさすぎただろうか。

 僕は子どもの頃からずっとずっと「積み重ね」の大変さ、深刻さに怯えている。

 地道に積み重ねること自体は好きだが、「積み重ねて築いてきたもの(例えば信頼)を崩すのは一瞬のことで、それを回復するのは最悪不可能、それでなくても長い長い時間がかかる」という本当か嘘かわからない怯えが、心の中にいつもある。それは間違いなく、母親に何度となく言われて傷つけられながら痛感して内面化してきたことであり、いつからか自分の中にいる地縛霊のようなオバケがじめじめと囁いてくる言葉でもある。何年かけて築いたものも、失うのは一瞬だよ。取り返しがつかないんだよ。そう囁きながらオバケはドミノをつんと倒す。ぼくだってこんなことしたくないのに、みたいな顔でドミノの列を見ている。ああもう積み重ねは台無しだよ、なんて言いながら。

 この数年で僕は、手付かずの荒れ放題だった自分の内面の庭を、美しく、自分にとって心地好い風が吹く場所であるように、と整えてきた。おかげで心身のバランスも、精神も、自分で許せるものになってきた。それにしてもしかし、その庭に誰かが近づくと急に心が狭くなる。悪いなのび太、この庭、1人用なんだ。そんなふうに思うし、僕はどんどん優しくなくなる。優しくないのは美しくなくて恥ずかしいことなので、改めて自己嫌悪だ。心の安寧を維持するための警戒心や価値判断で、自分が美しさから遠のくなら嫌だな、と思う。

 崩れたドミノを一瞥して「そう、じゃあもう仕方ないんじゃない」「これは不可逆変化」「あの子は約束を守らない」と、オバケは母に似た声で言う。残念ながら、それは自分の声にも似ているようだ。

 僕が自分の庭を守るための価値判断は、セキュリティのフィルターは、自分以外には快適じゃないのかもな、と少し憂鬱になる。いやそんなの当たり前のはずだったのだ、僕のオーダーメイドなんだから。こんな悩みは美しくない。……そう思いつつ、少し引っかかっている。

 緑の芝生の上で、白い牡牛はただ貴族然として、静かに眠っている。