愛馬のこと

torino
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(2019年に執筆したエッセイのアーカイブです)

 生まれてこのかた、ペットというものと暮らしたことがない。共働きの家では犬の世話など満足にしてやれるはずもなく、うさぎなど飼ったら寂しさで死なせてしまう恐れがある。ついでに自分は猫アレルギーらしいと、あるとき判明した。メダカとカブトムシを飼ったことならあるが、私の目に彼らはいささか個性に欠けるように映ってしまい、家族同然とまでは思えなかった(とはいえカブトムシが死んでしまった朝は、涙ながらに家の裏にお墓を作ったが)。人間以外の相棒というのは、とても魅力的に思えて、ぼんやりと憧れ続けてきた存在だった。

 そんな私にも、ついに、人ならぬ相棒ができた。自転車である。

 とある冬の日に迎えた彼は、きらきらと日差しを浴びて空色に輝く、若々しい自転車だ。……ペットと呼ぶのは、流石に違和感がある。けれど、もはや彼は私にとって、ただの乗り物と呼べる存在ではない。彼を呼ぶとき、私は「愛車」ではなく「愛馬」と呼びたくなる。すなわち、勇者リンクにとってのエポナ。オカリナを吹いても駆けつけてはくれないだろうが、愛馬、あるいは相棒と呼んで、心の底から愛したいと思っている。

 混沌に名前をつけると混沌は死んだというが、無機物に名前をつけると、それは途端に生き生きとし始める。高校生ぐらいの頃には、自分の携帯電話にも名前をつけていたものだった。というわけで、わが愛馬にももちろん名前がある。誰が呼び始めたのだったか、その名は、アタル・ブルースカイという。

 ブルースカイは、もちろん、車体の美しいブルーに由来する。ターコイズがかったその色については、いくらでも語れるのだけれど、ここではおそらく語りつくせない。店先で彼を一目見たときから「これだ」と思ったこと、空色が私の何より好きな色であること……そして、彼は見事なまでにどんな季節の空にも映えて美しい、ということだけ述べるに留める。一方で、気になるファーストネーム(?)の「アタル」の由来だが、これは何も競走馬のようなおめでたいイメージではない。彼がとにかく(女ではないが)じゃじゃ馬で、乗ろうとする者や隣を歩く人の脚に一々よく当たる、という不名誉極まりない理由から、この名を授かった次第である。これまでに、彼のペダルに何度、膝裏や向こう脛を叩かれたか知れない。人様の足を轢いてしまったことも一度や二度では済まない。操縦している自分を高い棚に上げて言うが、困ったいたずらっ子である。

 そんな愛すべきアタル・ブルースカイ号は、数々のアザと、ささやかで大きな自由を私にもたらしてくれた。彼がいなかったら、私は今の暮らしをこんなにものびのびと楽しんではいまい、と確信を持って言える。そんな彼との出会いのことから、感謝と愛を込めて、少しばかり話したい。

 彼に出会った冬というのは、今年の始めだ。ちょうど、私が一人暮らしを始めた冬でもあった。今でも覚えている。段ボールを運び入れてくれた宅配のおじさんが、去り際に「そういえば、自転車って持ってますか?」と訊いてきたのだ。幼少期から坂の多い町に住んでいたから……というのは言い訳だが、私は自転車に乗るのがどうにも怖くて、小学校低学年の頃以来、自分の自転車というものを持ったことがなかった。強いていうなら修学旅行でレンタサイクルに乗り、ふらついてきゃあきゃあ言いながら美瑛の丘を駆けた思い出が最後である。「いいえ、持っていません」と答えたが、するとおじさんはきっぱりと「そうですか! じゃあ、買ってください。ないとやってけないですよ。それじゃ」と託宣めいた言葉を残して去っていったのであった。

 段ボール箱の山とともに後に残された私は、「なんか、すごい勢いで薦められたぞ」という困惑と同時に、二十代半ばにして自転車の練習を……? という恐れに、眩暈を覚えるばかりだった。

 しかしその後検討してみると、新居は、自転車があれば通勤もできる立地だ。電車も好きだが、選択の自由があるというのは素晴らしいではないか。それに買い物も楽だろうし、ちょっとした遠出にも使えるに違いない。ママチャリは不恰好だから嫌だけれど、それなりにスマートな自転車を買えたらいいかもしれない。……というわけで、正月休みが明けた頃に自転車屋へ赴いて、そこで愛馬と、運命の出会いを果たしたのだった。念願の自分の城に、自分の馬。なんだか楽しい毎日になりそうだ。と、それだけで満ち足りた気持ちになった。

 幸せな予感は的中し、むしろ彼とともに走る毎日は、期待以上の素晴らしいものだった。朝、通勤の際に自転車にまたがるだけで、「これから風をきって走るのだ」という期待で脳が目覚める。冬には肩をちぢこめながら、春には桜舞う風を思い切り吸い込みながら、そして若葉をぬけた木漏れ日を泳ぐように、まっすぐな道を走る喜び。仕事が終わった夜道も、疲れ切った空気の地下鉄に乗らなくていい。ただ自分一人で、迷いのないスピードで、ただただ好きに突き進んでいけるのがいい。走りながら綺麗な月を見上げるとふらつくけれど、それもいい。買ってしばらくの間はよく転んだが、最近はなんとかかんとか乗りこなせるようになってきた、と思っている。

 雨の日だけは乗れないけれど、ブルースカイはブルースカイの下でないと走れないのだ。そうよね、と笑いながら駅へと歩く。そんな時ぐらいはイヤフォンから音楽を聴いて、ああこれはこれで大好きな時間だった、と思い出す。

 そう、もともと私は、通学時間には必ずなにか音楽を聴く習慣があった。けれど、電車や徒歩でなら様々なBGMを楽しめるが、自転車ではさすがにそうはいかない(……じつはこの真理を学んだのは、幼少期にポケモンをプレイしたときだったのではないか、と今更気が付いた)。それでも、自転車には自転車の楽しみ方があるのだ。朝早く人のいない道で、自転車を漕ぎながら、歌を歌うのはとても楽しい。……もっとも、定番の「風になる」は楽しいが、生来インドア体質の自分では、近隣の急坂を駆け上りながら口ずさむのには限界があることも思い知った。なんにせよ、歌が趣味の自分としては、この上なく自由で幸せな時間を確保できたわけだ。朝、あるいは夜遅く。一人で口ずさむスピッツ、ZARD、あるいは適当なジブリメドレーなど、穏やかで懐かしい歌たち。心がストレッチをしているようで、たまらなく元気が出る。それもこれも、ブルースカイ号が教えてくれたことだ。

 ブルースカイが教えてくれたことは、他にも色々ある。たとえば、ちょっとしたズルさもその一つだ。

 もともと私が自転車に乗るのを恐れていた理由の一つが、歩道と車道のどちらを走ればいいのか、という所在無さだった。おそらく私は、人より怖がりだ。そして、妙なところで生真面目だ。スピードが出るのは怖いし、自動車と至近距離ですれ違ったり追い抜かれたりするのも怖い。誰かとぶつかってケガをさせてしまうのも、非常に怖い。交通ルールだって車のものを守らなくてはならないのだろうが、それ相応のスピードなんて出せるわけもなく。……けれど、ブルースカイはそんな小心者の迷いを吹き飛ばす程度には、疾走する気持ち良さを教えてくれた。

 今では、自転車に乗ってすいすいと歩道と車道を行き来して進むこともするようになった。そうやって信号や混雑をくぐり抜けるたびに、私の脳裏には「ひきょうなこうもり」の寓話がちらりと浮かぶ。最初こそ躊躇ったものの、最近はそのたびに嘆息して笑って、「お前は私をズルくするね」と、すまし顔の愛馬のハンドルをポンと叩いてやる。これもまた成長というやつなのかもしれない、などと、時々思う。

 お天気に恵まれた休日の朝には、彼と出かけたい、とだけ漠然と思う。どこに行くかは決めていないけれど、ブルースカイに乗ってどこかに行きたい。そんな思いが浮かんで、行き先を探す。結局それは植物園や庭園であったり、古本屋だったり、お寺だったり、池袋の繁華街だったり、隣の駅前のブックオフであったり、色々だ。自転車で行ける距離というのは、実に程よい。徒歩では行けない。でも、電車であっという間では、いまいち味気ない……そんな距離の旅を、やさしく叶えてくれる。

 自転車は、青春の乗り物だ。愛馬ブルースカイに乗りながら、常々思う。徒歩より速いけれど、車には敵わない。どこまでも行けそうな気がするのに、そんなことはないと、華奢な車体が突きつけてくる。狭間を漂う青少年のような感じが、自分はそういう種族であるのだというような綺麗な諦めが、その銀と青の車体から滲んで伝わってくる。もし学生時代に自転車を持っていたら、どんな気持ちになったかな……と、ふと思って苦笑する。きっと、もっと、青春という病をこじらせていたのだろう。今でも大概、ひどいのだけれど。

 平日の朝晩に颯爽と私を乗せてくれる彼も、休日に一緒に散歩してくれる彼も、本当に好きだ。押して歩くと、物足りないとせっつくように、人の足を攻撃するところも。

 いつか、ブルースカイに海を見せてあげたい。

 海からは程遠い場所に住んでいるので、おそらく叶わぬ夢なのだけれど、そんな風に思うことがある。「空の青も美しいけれど、海のあをもいいでしょう」と、しみじみ呟いて、隣に座ってサイダーでも飲みたい。

 アタル・マリンブルーになりたいって言われたら、そのときはどうしようかな。などと、おかしな想像をして、一人きりの部屋の中で苦笑する。その前に「アタル」を卒業しようね、とでも返すべきなのかもしれない。

(2019/06/16)