足のむくみ
足が痛い。先週からだ。小野クリニックに相談したら、救急車を呼ばれて、堺市民病院に行くことになった。血液検査とエコー検査をした。特に問題はなかった。
看護師さんに「綺麗な腕ね。(針を)指すのに緊張するわ」と言われたことが嬉しかった。
母には「慎重になりすぎているのでは?」と言われた。確かに、こうして病院に生き続けているといくらお金があっても足りない。自分の心配性、或いは「こういう不具合であって欲しい」という願望のせいなのかもしれない。いずれにせよ、何もかもを病気のせいにしたくはない。逃げてばかりいるから。
ただ、これも言い訳になるが、スーパーに買い物に行った時、足の甲(特に痛んでいた部分)の色が茶色く変色していた。
大学院のこと
実習を休んでいる。あと四日ほど残っていたのにもかかわらず、休んでいる。体調不良もあるけれど、鬱の方が本当のところは生きづらくなっている理由だ。先生方の視界に入ることが怖い。どうすればいいのかが分からない。
特に、恩師──N先生を敵に回すことが怖い。この前、面談をした。先生が私の病気について調べてくれていた。ほんの少しだけ、距離を感じた。
分かっているつもりだったけれど、飽く迄も私は1人の学生で。可愛がられていた方だから。大丈夫。
でも、少しだけ接し方が違った気がする。怖い。私の居場所があの空間から亡くなることが怖い。
どうか、前の私と同じだから。距離を取らないでください。
そんなことを言えるはずもなく、私は表面的な「病人」としての姿を晒す。お願いです、どうかどうか。
母が優しくしてくれていることを伝えた。先生が「甘えられている間に、たくさん甘えておきなさい。君は十分に甘えられずに、まだ子どもな部分も多くあるから。ゆっくり慌てず大人になりなさい」と言った。
母は本当に優しくしてくれている。それ故に怖さがある。甘えに怖さがあるのは、普通なのだろうか。
いっそ、すべて言葉にしてしまおうか。
私は、あなたに「母」を見ていた。許されるのなら、あなたに甘えていたかった。言葉を借りるなら、「理想の母」を見ていたのかもしれない。だからこそ、足場を外されたような感情を持ったのかもしれない。
なんて気色の悪い事だろう。
土の人形
桜庭一樹は著書『私の男』の中で、「血の人形」という言葉を登場させた。
千早茜はインタビューの中で人は「血の袋」だと考えていると語った。
私は、自身のことを土の人形だと捉えている。
土偶といった焼き物のような土の人形ではなく、ビーチの砂で作ったゴーレムを連想してほしい。
脆くて、すぐに崩れてしまう。身体が思うように動かなくて、崩れていく。溶けていく。前に進もうとしても、どんどん自分が自分でなくなっていくような気がする。
ゴーレムは、「未完成のもの」という意味も含んでいるらしい。
いっその事、死んでしまえたらいいのに。