昨年の19日から書いていないというのは、まあやはり自分は飽き性だと思い知らされる。
薬もいい感じに効くようになり、心の中に分厚い膜が張られたようであった。しかし、代わりに詩や歌に対する異様なまでの『共感』の力は薄れたように思えた。なんだかんだ言いながら、鬱の時に感じている鋭すぎる感性を嫌がりながらも愛していたのだな。
だが、それにしても言葉とはすごいもので、どれだけ鈍くなった感性をももう一度研ぎ澄ます起爆となることもあった。それが、最近で言うと千早茜の短編集『あとかた』に入っていた「ほむら」と田村隆一の「帰途」である。
「帰途」は言うまでもないだろう。前回の時に言ったように、己の辛さ・悲しみを見事に描いていると思うし、私が詩の世界に触れるきっかけとなった作品だ。どんな時に読んでも、言葉の広がりやあの時に感じていた苦しみをよみがえらせることができるし、見え方は新鮮に変わる。
今回は、千早茜の「ほむら」について書くとする。「ほむら」は、『あとかた』の一番最初に収録されている話だ。主人公は結婚間近であるが、年上の男(彫りが深く、スーツの似合う、背の高い男、一人称は「私」)と不倫をしている。主人公は度々「私もう直ぐ結婚するんで」と線引きするが、絆されてしまう。それを男はもうすでに見抜いている。そして、多分初対面ではない。男はずっと彼女を落とすことに狙いを定めていた?何より、この話の一番の見どころは二人の最後のデートだろう。男と京都に行き(彼女は男のために仮病を使う)、血天井を見に行く。そして、男はその寺にある手形を見て言う。「あの手形と同じものを今朝自分の体に見た」と。とんでもない破壊力だ。正直こんな作品があること自体に驚いている。忠義のために腹を切るも、その苦しみ・痛み故に手をついてしまった痕と男を求めているにも関わらずその身体に傷をつけないようにしてきた女が男の体に残した痕を重ねるなど、なんという粋な表現だろうか。これにはもう悶絶し、ほうと溜息を吐く。文章にもんどりうったのは、『嗤う伊右衛門』以来かもしれない。兎に角、素晴らしい短編であった。
さて、先日キャベツと塩昆布のペペロンチーノを作った。普段は、焼いた食パンの上にごぼうサラダを乗せる朝食しか食べない私だが、この日は少し洒落たものを食べたくて、レシピを検索し、フジッコの掲載しているものを少しアレンジして作った。初めて作ったにしてはかなり美味しく出来たのではないか。キャベツの甘さとペペロンチーノの塩気、偶にやってくるソーセージと塩昆布が良いアクセントになっていた。まだまだ寒い日が続くが、キャベツは少しだけ春を感じさせてくれた。3月ももう直だろう。
久々に書いたが、なかなかに「かきすさび」が出来たのではないかと思う。最後に、今読んでいる木田智美の『パーティは明日にして』から、いくつか気に入った俳句を載せようと思う。
『ゆるやかに ウォーターゲームの 水温む』
『夏服の 透けて名画の 前に立つ』
『しんどいを 言えない大人 桃温む』
『石鹸は 血管の色 星祭』
『葡萄おもたしと思えば 生理一日目』
『甘えたいし 甘えられたいし 秋刀魚焼く』
『やさしくて よく泣く人へ 蜜柑送る』
『縦縞のパジャマのままに毛糸編む』
『アイホール全体に自転車の色を塗れ』
『消火器の中身ゆめかわいい雲だ』
『蝉の翅地に焦げていてキャラメリゼ』
『映画のあとの足がふわふわ鳥渡る』
『秋薔薇わたがしすこしずつちぎる』
『柳散る煙草はもうやめたらしい』
『靴下を毛布の底で脱ぐよろこび』