小さい頃は何の理由もなくただ集い、無邪気に話していたものだ。小学生の頃は、休日に突然友人の家のピンポンを連打して遊びに誘ったりした。中学生の頃は、部活帰りに何時間も地べたに座って日が暮れるまで話し込んだりもした。
社会人になり数年経過した今、こういう無計画な催しはほとんどないと言って良いだろう。仲の良い友人と顔を合わせる機会ですら、やれ新年会だの結婚報告だの転職だのという「理由」がないと実施されない。
それはきっと大人の世界では当たり前のことなのだと思う。誰しも仕事や事情があって、小学生の頃のように都合を合わせることは叶わない。僕だって突然明日どこかに遊びに行こうと言われたら、場合によっては断るだろう。パートナーが居たり、それこそ子がいる家庭を持っているなら尚更難しいはずだ。そういう事情を勘案すると、「理由」がないと集えないのが大人という生き物なのかもしれない。
別にそういう集いが嫌いというわけではないのだけれど、なんだかそれ相応の振る舞いが求められているような気がしてならない。かの日の僕らのように無邪気にとりとめもない会話をだらだらとするのではなく、昔話に花を咲かせたり、変わりゆくライフステージについて相談するのが常なのだろう。それは文化的生き物として当然の変化なのかもしれないが、あの頃から少しも成長していない僕にとっては少し寂しいと思わざるを得ない。