23.11.26に綴った文章
その人が“その人”として生きられる小さな灯り
とろ火として灯していきたいのは、そんな仄かな明るさなのかもしれない。
それは、生の実感とは少し違っていて。ただ生きているのではなく、他でもない自分として生きている実感。
その人をその人たらしめているドロッとした部分が、世界に溢れていて欲しい。じゃないと、生きている意味がないとまで思ってしまう。
これは僕のエゴ。大切なあの人があの人である所以が転がっている。そんな世界じゃないと、僕は生きていけない。
その灯りは、自分で灯すしかなくて。誰かがが点火してくれるわけがない。すぐに油も切れてしまう。見つめ続けないといけない。
なのに、社会で生きのびるためには不要とされるものであって。灯りは消して過ごす方が、都合がいい。「ほんとのはなし」なんて、社会で必要とされていない。
だから、仲間たちで灯りに手をかざして、細々と守っていきたい。
そのための「語り合い」なのだと思う。誰かが想いを場に出す。聴く。受け止める。呼応した想いが引きずり出される。灯りが継がれていく。
そして、語るには、悩み・考え・感じないといけない。内側に育つものがあってはじめて、なにかを語ることができるから。
その人が“その人”として生きられる小さな灯りを、灯していこう。
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<やっていきたいこと>
とろ火をかこむ
とあるテーマで語ることもあれば、誰かの想いをかこむこともあれば。灯りを守っていく、育てていく。
とろ火をたどる
インタビュー記事。すでに自分の灯りがある人の語り。
これを元に、「とろ火をかこむ」も展開したい
とろ火書房
とりさらわれる本を。マルシェにも出てみたい。
難しい本を一章ずつ読む「とろい読書会」はやりたい
ほんとのはなし
とろ火の元を探すイメージのポッドキャスト
その人の本との話&本当の話を
🤔生きのびるためのなにか…もやりたい
🤔なにかを何人かで企む灯りもやりたい
<深めたいメモ>
本来感・語ること・聴くこと・アナキズム・相互扶助
23.7頃に綴った文章
とろ火とは、弱火よりも火力が弱い火のこと。沸騰はさせられないかもだけど、じんわりじっくり、長い時間をかけてあたためる火。
そんな揺らめきで、自分の思考を煮込み続けたい。煮込まれている、あなたのことばを味わってみたい。
つらつらと語り合う「とろ火をかこむ」
取りさらわれる本と出会う「とろ火書房」
を通じて、一緒にあたためていけたら嬉しいです。これから、末永くよろしくお願いします。
小学校3年生の秋。夕暮れどきのリビング。
ふいに涙が流れた。その後に、物悲しくなった。
台所でご飯をつくる母のもとに、パタパタと駆け寄った。
「僕もお母さんも、いつかいなくなっちゃうの?」
あのときの心が、姿を変えながら残っている。
なんで生きているんだろう。なんで、いまここにいるんだろう。
それは絶望ではなく、途方もない何かへ手を伸ばす感覚。
この気持ちを、この感覚を抱えていよう。
忙しない日々のなかで、何かの役には立たないとしても。
悩み、考え、書を読み、語り合う。
明日、明後日じゃない。何十年後かもしれない。
あたたまるまで、ゆっくり、ゆっくり。
今日読んでいた本に「思考の共犯関係」という言葉がありました。さまざまな抑圧のなかで、“人間”ではなく“人形”になってしまう危険性。そこに対抗するためには、「思考の共犯関係」が大切だと。
要は、共に手探りで思考を進めながら、悩み、考え、語り合うこと。ひとりでは放棄したり、分かったつもりにしたりするものを、誰かと一緒に転がしていく。
不確実で予測不能な世界で生きるために…と、そんな大層なことは全くもって考えていません。とろ火をはじめたのは、ただただ、「思考の共犯関係」が欲しかっただけ。言うなれば、この世界を楽しむためです。
大好きな小説『獣の奏者』の主人公は、こう言います。
自分はこの世に生きるものが、なぜこの世にあるのかを知りたいのです。生き物であれ、命なき者であれ、この世にあるものがなぜそのようにあるか、自分は不思議でなりません
小学生のときに刻まれた、このことば。こんなに研ぎ澄まされた純粋さがあるとは思いませんが、似たようなことを考え続けています。そして、何度も躓いてきました。すり傷だらけです。
人形になってしまいそうな自分。その流れに抗うには、僕ひとりだと弱すぎた。だからこそ、とろ火を企みはじめました。
実は、似た活動をオンラインではやっています。(名前もとろ火ではなく、“はしらずとも”と名付けていたり)
ただ、思考の共犯関係は、日々暮らすまちで広げることにも大きな意味があるはず。だから、とろ火は対面での活動しか行わないつもりです。変わるかもですが。
一緒に悩み、考え、本を読み、語り合えたら嬉しいなと願い、ほのかな火を灯していこうと思います。