その人を“その人”たらしめるドロっとした部分

とろ火
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大学一年の初夏。一学期最後のなにかの講義で、「興味関心のあるテーマ」について訊かれた。僕が行っていた大学は、専攻を後ほど決める形だったので、興味関心について広げる機会が多くあった気がする。

当時18歳のあくつ少年は、こう答えた。

僕が苦手な人にも、その人のことを大切に想う存在がいる…っていう事実が不思議だなぁと思ってます。

なかなかのことを言っている。しかも、まだ3ヶ月ほどしか共にしていない級友たちの前で。よく、僕が嫌われる対象にならなかったもんだ。

時は流れて、10年後。28歳のあくつくん。(え、10年も経ったの? もう青年と呼ぶのも違うし、おじさんとは言いたくないし、なんと称するのがよいのやら)

残念なことに、全く同じことを思っている。そして、文章の流れ的に「残念なことに」って書いたけど、1ミリも残念さは抱いていない。なんなら、胸を張っているまである。

10年前の発言を引っ張り出したのは、ここ数年、「優しいね」とか「柔らかい人ですね」とか、そういう捉え方をされることが増えたから。弱さについて考えたり発信したりしている影響かもしれない。

優しいってなんだ。柔らかいってなんだ。いや、別にそれはいいけど、それだけになるのは御免だ。そんな自分は気持ちが悪すぎる。ただのうすっぺらになんて、なりたくない。

…とか言いながら、今年、個人の活動として「とろ火という、「悩み、考え、書を読み、語り合う企み」を始めた。言葉選びも相まって、この遊びも優しく、柔らかいものだと思われている気がする。というより、もはや、自分でもそう感じそうになっている節がある。

けど、やっぱり違う。僕の核にあるものは。それを握りしめないといけない。バンドマンの友達に「あくつにはロック魂を感じる」と言われたことを思い出しながら。とろ火をはじめた思想をほどきながら、ひねくれた自分を真っ直ぐ生きるための文章を。

ライター・編集者としての活動をしていると、関心度のメーターが振り切れている同業者を見ることがある。どんな人・物事にも興味津々。純粋な「知りたい!」が次から次へと質問を生んでいく。それは決して作っているものじゃなく、本物の前のめり。本気で面白がっている人が聴く・書く記事は、やっぱり面白くなる。

一方の僕は、この関心度がびっくりするくらい低い。過去にいろんな媒体で記事を書かせてもらったけど、自分を置いてけぼりにしたものも多い。所属先で「あくつは興味ある仕事しかやる気ないからなぁ」と言われたことも。ひたすらに事実です。すみません。

いろんなことを「いや、どうでもいいやん…」って思ってしまうんですよね。これが、ときに失礼にあたるのは百も承知だけど、それでもやっぱりどうでもいい。

じゃあ、僕にとって「どうでもよくないこと」ってなんなのか。それを考え続けるなかで、最近、いまの自分にしっくりくる言い回しを見つけた。

「その人を“その人”たらしめるドロっとした部分」

これを求め続ける人生なのかもしれないなぁ…とさえ、いまは思っている。

その人を“その人”たらしめる。僕は“安久都智史”として生きているし、あなたは“あなた”として生きている。分人主義(※1)にあるよう、その自分は決して一意ではないし、固定化されたものだとは思わない。でも、奥の奥には核のようなものがあるのではないか。その核は、光の当て方によって見える面は違ってくる。でもたしかに、一人ひとりが独自に持っているもの。

※1:小説家の平野啓一郎さんが提唱した考え方。「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のこと。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉える考え方を「分人主義」と呼ぶ。 (参考:分人主義OFFICIAL SITE

誰かと関わり合うとき、自分のどの側面が現れるのか。その視点が分人主義にあるとするなら、僕がぼんやり考えている視点は「深さ」、もしくは「中核性」(そんな言葉があるのか知らないけど)にある。

要は、どんな側面が出ているかじゃなく、いまの自分はどれだけ中核に近い深さにいるのかに目を向ける、ということ。中核というくらいなので、小さな球を想定した考え方になっている。(下図参照。楽しくなって、下手なりに図解してしまった)

この赤い部分こそを、「その人を“その人”たらしめるドロっとした部分」と呼ぼうとしている。地球のマグマじゃないけれど、奥の奥の奥の奥の奥にあるものが、サラサラなんてしていないはず。簡単には出せない、もしかしたら汚さや醜さも含んでいる、でも、どうしたって捨てられない部分。

僕は、このドロっとした部分に、どうしても魅力を感じてしまう。

友達にも「あくつさんって、ほんとうのことが好きなんですね」と言われたけど、この魅力を説明するのは難しい。手がかりになりそうな本は、たくさん思いつくので、読んだものも、かじったものも、これから読み進めたいものも、ざっと並べてみる。

うーん…絶対もっとある…。漁りだすと止まらなくなるので、いったんここまで。

人文系の本でも、小説でも。これらから僕が感じ取ったものが、いくつかあって。「人間は相互関係の堆積に生きている」や、「丸ごとぶつかる・ぶつかられることで、はじめて自分が浮かび上がる」などの思想が、僕のなかに育っていることを感じる。

その思想は、数年前から掲げている座右の銘「思考とことばが生きる意味」にも現れている。頭のなかを渦巻く“思考”。そして、それを外に出すための“ことば”。ことばを平仮名で書いているのは、言葉だけでなく、身体表現や絵、写真、料理、活動など、さまざまな形を想定しているから。

丸ごとぶつかる・ぶつかられるとは、思考とことばをやり取りするということ。相互関係の堆積に生きているとは、そのやり取りで浮かび上がったものが、思考とことばに影響を与えるということ。この繰り返しで、中核が育つんし、深く深く潜っていくこともできる。

自分の、そして他者のドロっとした部分に触れることは、意味を持たない生を続けていく足場になる。僕はそう信じている、というよりも、そう信じないと生を続けられない。

今年の夏頃に読んだ『はじめての短歌』という本に、頭をついて離れない一節がある。

僕らは生きのびるため生まれたわけじゃない。「生きるため」に、生まれてきた。生きのびないと、生きることはできない。でも、生きのびるために生きているわけでもない。

僕は、僕を生きていたい。大切な人には、その人として生きていて欲しい。紛うことなきエゴが、大きくなっている。

そのために必要なのが、“悩む・考える”と“語り合う”だと感じて、とろ火の活動をはじめた。

悩んだり考えたりって、要は立ち止まることで。滑らかに流れていたものを、堰き止めること。ぐるぐると頭が忙しくなる。爆発しそうにもなる。けど、その時間が深く潜らせてくれる。

とはいえ、ずっとひとりだと本当に爆発してしまう。堰き止めたものが澱み切る前に、流してあげる必要がある。そのための、語り合い。“語る”と“聴く”の往復運動で成り立つ営み。中心には、“他者性”の概念がある。

わかりやすいのは、聴くことで感じる他者の他者性。誰かの語りは、仮に共感を覚えたとしても、自分と完全な一致は有り得ない。まったく違う世界の語りが出てきたときなんて、もはやうっとりしてしまう。そんな人もいるんや…って。

語りを聴くってつまり、自分と他者の違いを浮き彫りにすることで。他者は、どこまでいっても他者。聴くことで痛感するその事実は、「人はわかりあえない」という絶望でもなんでもなく、一人ひとりの面白さを味わう機会を届けてくれる。

その他者の他者性は、自身の他者性をも浮かび上がらせる。知らなかった自分や初めての思考に出会える。他者の輪郭が濃くなることで、自らの輪郭もはっきりしはじめる、といった感覚かもしれない。目を背けていた浅はかさに、愕然とすることも多いけど。

語ると聴くの往復運動。それは、自分と他者の往復運動でもあって。語り合いをすると、その運動性によって澱みは流れていく。

そしてまた、悩み考え、立ち止まる。そこで育ったなにかを、他者と往復させる。その繰り返しのなかに、僕は僕として、あなたはあなたとして生きられる日々が浮かび上がるのではないか。

本当の自分を探したい…なんてまったくもって思っていなくて。世界が諸行無常だとしたら、その一員の人間だって諸行無常。悩み、考え、語り合うことは、移ろい迷うこと。その姿勢こそが自然でしょう?

とろ火は、そんな思想ではじめた活動。改めて考えてみると、冒頭に書いた10年前のあくつ少年の言葉が、根底に流れているのだと気づいた。

僕が苦手な人にも、その人のことを大切に想う存在がいる…っていう事実が不思議だなぁと思ってます。

ここで言っている事実は、まさに他者の他者性。

みんな違ってみんないい…とは口が裂けても言えないけど、「みんな違う」っていう事実は見つめていたい。人は異なるから、出会いもあるし、別れもある。

実際に語り合う場を開いてみると、面白がってくれる人や、新しく覗いてくれる人がいて。思考とことばを交わせる場を、今後も開いていきたい。

(Photo by 林光)

そんなことを考えるとき、目を逸らしてはいけないのは、「生きのびないと、生きることはできない」という事実で。そして、生きのびるって難しいという現実で。

いまの多くの状況では、生きのびること≒お金を稼ぐこと、になっている。うーん…というよりも、生きのびる手段として最もわかりやすいのが、お金を稼ぐ、っていう感覚かな?

数年前、うつ病で働けなくなったときの、お先真っ暗な感覚をいまでもよく覚えている。なんなら、病気ではないけど、その感覚にはいまもよく陥る。

僕は不器用で、ドロっとした部分に蓋をしていると、途端に息苦しくなってしまう。でも、その部分をさらけ出しながらお金を稼ぐ回路が、まったく見当たらない。そこに経済価値を介在させたくないという、良いのか悪いのかわからない意地もある。じゃあ、どうする? 「生きのびる≒お金を稼ぐ」にどっぷり浸かってきてしまった身では、途方に暮れてしまう。絶望さん、いらっしゃい。

もう何年も、「絶望する→休んで回復する→稼ぎも大事だしな、と割り切ろうとする→ちょっと上手く回り始める→数ヶ月で蓋が限界を迎える→絶望する」を繰り返している。

この迷路から抜け出さないといけない、という想いが年々強くなっている。それでもまだ、「どうせ無理だよ」と言い訳する自分が居続けていた。

そんな言い訳が決定的に薄れはじめたのは、ベタすぎるけど、お子が生まれたからで。妻の妊娠・出産の報告をすると、「父親として、これから仕事がんばらなきゃね」と言われることがあった。腹の底から気持ち悪いと思った。そして、その気持ち悪さは自分のなかにも確かにあることに気づく。

出口は見えてないけど、このままでは僕が腐ってしまう。大好きな妻とお子と出会って、「意味のない生だけど続けていきたい」と願えるようになったんだから、蓋をして腐らせている場合じゃない。

ドロっとした部分を蔑ろにせず、生きのびる。そして、生きるために時間を使う。そんな道を考え抜きたい&実験し続けたい。

そのために、とろ火として、ちょっと企んでいることもある。進めていくぞ。せっかくなので、手がかりになりそうな本も置いておこう。

まだまだある気がするけど、これもいったんここまで。

生きのびないと、生きることはできない。じゃあ、生きようとするのなら、生きのびる術も考えないといけない。でも、その術で生きるを傷つけてはいけない。

難しいよねぇ、とは思うけど、どうせ蓋をしていたら内側から腐ってしまう不器用人間なので。腰を据えて向き合っていこう。

そのなかで、確実なまでに「農」の世界は出てくる。2023年は、農家さんのお手伝いができたので一歩前進。だけど、植物たちの夏の勢いを完全に舐めていて、自分で借りた畑やコミュニティの畑・田んぼの活動まで体力が持たず。反省です。2024年は、「農」をやってみるだけじゃなく、「農」に生きる人たちのドロっとした部分にも触れていきたい。

たくさん書き殴ったあと、僕のこれからに考えを巡らせてみると、心に漂っていたのは「青春したいだけなんだよなぁ」だった。

ここ数年、ずっと口にしている言葉。青春。いろいろそれっぽいことを書いたけど、青春したいだけなんです、僕は。わざと言わない時期が何度かあっても、結局はここに戻ってくる。

青春って、不思議で。輝きを発しているのに、自分にとって大切なことを悩む陰鬱さも帯びている。前向きな活力だけでは、決して成立し得ないもの。でも、想いがなくても成立し得ないもの。

なにかを生もうとして、自分のドロっとした部分と、大切な存在のドロっとした部分が触れたとき、想いと悩みが混ざり合った青春になるんだと思う。生に意味なんてないんだから、感動してないと続けられない。青春したい。

こんなことを言ってると冷笑してくる人もいるし、実現したときの日々が想像できていない自分もいる。それでも、ただ腐っていくのは嫌なので。あがくしかないのです、うん。一緒にあがいてくれる仲間も募集中です。

世界を灰色に追いやってくる圧力は、あちらこちらにあるけども。それらには、静かに中指を立てて。ひねくれながら真っ直ぐ生きていこう。

@torobi
その人を“その人”たらしめるドロッとしたものを探る活動です。つらつらと語りあう「とろ火をかこんで」や、取りさらわれる本と出会う「とろ火書房」など。 X:@as_milanista Insta:www.instagram.com/sts_akt