恐れている対象は、死ではなく「つらさ」と「死後」

tosi
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ここ最近、死について考えることが多い。それは昨年親が他界したこと、祖母も長くないこと、自分も体調不良を感じていることなどがきっかけだ。そして自分の死について考えたとき、恐れていることは「死」そのものではなく、「つらさ」や「死後」なのだということがわかってきた。

小学生の頃には「死」に対する恐怖を感じることが多かったが、今となっては「死」そのものについて怖いと思わない。なぜなら、自身が生まれる前は存在しておらず、それは死に等しいから。自分の視点で見るから「死」が怖くなるのであって、世の中から見れば「自分が存在していたこの数十年こそが特殊であった」とも言える。つまり、世界としては元に戻るだけなのだ。そう考えれば、恐怖はなくなる。

恐れている対象の一つは「つらさ」。痛いのはとにかくつらいし、低血圧のときの感覚は何度体験しても嫌で、生きるのを諦めたくなるくらいだ。この「つらさ」をどう克服するのがよいかはまだ答えが見えていないが、仏教(瞑想や悟りなど)の中に答えがありそうな気がしているので、仏教を学んでいきたい。

そしてもう一つの対象は「死後」。自分が死んだあとに、周りの人がどうなるか、迷惑にならないか、残された母は大丈夫か、そんなことを考えてしまう。これに対する答えも最近発見できていて、それはEnding Noteを書いておくことだ。Google Documentで書けばURLで共有できるし、そのリンクをQRコードにして財布に入れておけばいい。個人情報やプライバシーに関わることは、印刷して一緒に財布に入れておくでもいい。

これらの2つさえ克服すれば、残りの人生を全力で生きられる。そんな気がしている。それにしても、自分はこの期に及んでも「立つ鳥跡を濁さず」なのだなと思う。もっと利己的に生きればよいのだが、それができれば苦労していない。よい向き合い方を見つけるしかないのだ。