「境界」にいるということは、とても生きづらいということなのだな、とつくづく思う。
最近話題の「境界知能」や「ASD・ADHDのグレーゾーン」というのがまさにこれだ。知的障害者ではないが、知能的にはかなり低めで生きづらさを感じている人たち。そもそも「障害」という概念は福祉制度を設計する上で必要になった概念で、一人で自立した生活が困難である人を「障害者」としている。そして制度設計上、どこかで線を引かなければならないのだが、その線を引いたことによって「境界」にいる人は「障害者」よりも生きづらくなっていることだろう。
病気と診断されるかどうか、というのも境界だ。数値的には血圧や脈が高くても、病気と診断できなければ健康とみなされる。薬は処方されないし、入院することもできないので、耐え続けることになる。また保険が降りることもないし、休職しても疾病手当金などは支給されない。健康とみなされる以上、労働しなければ収入が途絶えてしまう。「病気かどうか」の判定には何らかの線を引かなければ不正に受給できてしまうし、仕方のないことではあるのだが、「実際には健康ではないのに労働を強いられる」という事態になる。
「障害者か否か」という0 or 1ではなく、グラデーションを考慮した社会制度になると、生きやすい世の中になるのかもしれない。