他者の意見を、仮説として受け入れるということ

tosi
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最近自覚したとの一つに、自他境界が曖昧ということがある。それが原因かはわからないが「自分の意見をどこまで主張していいのか」には昔から苦労していた。

昔の自分は、引き際を知らなかった。「自分の意見」は、自分の中では当然正しい。そのため、正しいと思って主張し続けてしまう。しかし、これではお互いが同じ戦略をとれば、議論は平行線になってしまうだろう。そして昔の自分は、これが悪いこととも思っていなかった。

この考え方を改めたのは、インターネットの掲示板である書き込みを見たときだった。それは「本当にあなたが正しいのであれば、自分が主張しなくても、他の人も味方してくれるはずだ」といったものだ。この主張は自分に向けたものではなかったし、完全に正しいとも思わないが、これまでの考え方を改めるのに十分なものだった。

最も大事なことは「自分が間違っているかもしれない」という前提を持つことだ。自分が間違っているとき、それを止めてくれる存在はありがたいものだ。しかし「自分が正しい」と信じ込んでいる自分が踏みとどまるためには「自分が間違っているかもしれない」可能性を常に考えておく必要がある。

いつからか、全ての物事に対して仮説思考を徹底するようになった。そして「すべての意見は仮説である」と認識するようになった。自分は常に仮説を持ち、それを意見として主張しているだけ。そしてそれは相手も同じである。反例が見つからないのであれば一旦仮説が正しいものとして進めればよいし、反例が一つでも見つかったらその時点で仮説を棄却あるいは修正すればよい。時間の経過とともに仮説の信憑性は高まっていく。

この仮説思考においては、強く主張してよいのは2つの場合に限られる。1つは「明らかな反例が見つかった」場合、もう1つは「取り返しの付かない失敗をもたらすかもしれない」場合だ。それ以外の場合、相手の意見(仮説)を一旦は真のものとして受け入れれば差し支えない。意見の正しさは、時間の経過が証明してくれる。