なりたい自分に成る、どのような自分になりたいかを決めるのは自由だ。 どんな思想を持ってもいいし、どんな姿を目指してもいい。 生まれ持った特性や外見があったとしても、自分の好きな装いをするのは自由だろう。
私はダイヤモンドではなく黒曜石になりたがっていた。 澄み切ったものに成れなかったからだ。自分が成りたかった理想はもう遠くにあり、決して手の届かない所へ行ってしまっていた。酷く憧れた。散々縋った。でもなれなかった。
だからせめて鈍い輝きでもいいから自分の全てをさらけ出して、どうかこの自分の想いが、埃に埋まって見えなくなる前に誰かに伝わるようにと足掻いていた。
一面が真っ白な部屋、開かない扉、そこに居た時もそうだった。
誰も私を見つけられないのに、私は画面を通じて自分を放流した。見つけてくれてありがとう、と出会う度思った。
黒く鈍くても良かった。それが磨かれて鋭利になればなるほど、私は自由になっていったし、私は私たらしめるものを理解できた。
そしてそれは決して死を目指すものでは無く、生きる希望を見出すものだった。
鈍く黒い場所から、希望を見い出せないと誰が決めたのか。清く澄み切った場所から発信される言葉だから正しいのか?
私にとって神は私だ、他の何でもない。
自分の運命も生も死も変えられるのは自分しか居ない。自分を救うのは自分であり、自分を認めるのも自分を愛すのも自分だ。
だからどうなったって自己責任であり、自分なのである。自分の好きな肌で、髪で、肉体で、ぶくぶくと浴槽の中で生きている血の流れを体感し、自分を空間に落とし込み、全ては意識だと、生きていていいのだと。
成りたい自分であってほしい。どんな輝きでも良い。その手伝いができるなら輝きの原点を沢山掘り出して見せてあげよう。 そして諦めないでほしい、自分の人生は自分の人生だからだ。他の誰のものでもない。 逃げたければ逃げていい。ただそこに確実な光があれば。