コスパとタイパを追い求めず、無駄を許容する豊かさ

touyu
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本来、本や映画、音楽などは物質として存在していて、文字列やデジタル信号だけではない情報(手触りやその場での体験)を持っていたはずだけど、それらはコンテンツだけ取り出されて、電子書籍やNetflix, Spotify になり現代の人は喜んで摂取しているけど、本当に欲しかったのってコンテンツだけなんだっけ?コンテンツだけで元々の物質を代替できていると思わされているだけで、実はなにか壮大な詐欺のようなものではないのか?みたいなことを確か東浩紀さんがどこかで言っていた気がするんだけど、最近特にわかるような気がする。

エンジニアだからなのか元の性格なのかはさておき、何かを買ったりするときに大体mybestだったり、YouTube、レビューサイトを見て確実に高評価で安牌なものを選びがち。

服とかも無地でオーソドックスなものが多くてガラものはほとんどない。きづいたら家にあるものがどこかの誰かが良いと言っていた何かばっかりになっている気がした。

たぶんこれも冒頭のあれらと同じで、本来ファッションが持っていた何かから色々削り出して、服を買って身につけてはいるんだけど、実は文化的に貧しい行動なのかもしれないない。

だから、最近できる限りそれらを少しづつやめてみようと思っている。例えば朝にコーヒーかカフェラテを毎朝飲んでいるけど、レビューをあまり見ずに近所の個人経営のカフェで買ってみたり、服もインフルエンサー的なレビューを見ずに店頭で見て直感で良さそうと思うものを買ってみたりしている。

多分無駄な買い物をしてしまったり、美味しくないコーヒーに当たる日もあるかもしれないけど、まあ別にそれも悪くないんじゃないだろうかという気がするし、その無駄を許容できること自体が豊かなことなのかもしれないなと思った。