2023年4月頃に、twのタイムラインで(mocriの読書会で?)ジョン・ファンテ普及委員会の方から、ファンテはいいと聞き、じゃー、読んでみようと手に取ったのが『天使はポケットに何も持っていない』(作者ダン・ファンテ、Jファンテのご子息)(間違えたのです)(粗忽者ゆえ)でした。 そのレビューです。このふたり、というか、ふたりの作品、根底に流れる繋がっている水脈があるように見えました。わたしの中では、分かち難く。
◎『天使はポケットに何も入れていない』ダン・ファンテ(中川五郎訳)
訳者あとがきで、ブコウスキがJファンテを「俺の神だ」と言い、のちにDファンテはブコウスキのフォロワー的存在となる...…とあって。テーブルをがりがり引っ掻きながら読んでおりました(わたしはあとがきや解説から読みます)。話としては。NY在住の三十代後半くらいのブルーノ・ダンテが語り手で主人公。アルコール依存症で自殺未遂を繰り返し、治療センターに入所、退院を繰り返している。退院した日、折り合いの悪い妻が迎えに来て、LAにいる父ジョナサン・ダンテが危篤なので会いに行こう…と、ここから物語が始まります。二人でLAに行き、ブルーノの母、弟妹、そしてもう意識のない父と再会し、父の愛犬@病気でクサいブルテリア、ロッコに妙な責任感を持ってしまいます。家族とは一緒にいたくない、と、弟の車を盗みロッコを連れて逃亡を図り……。とにかく飲んだくれて、車を飛ばし、娼婦を買って、妻のカードを無断で使い、ロッコの世話をする。居場所がない、居心地が悪いというようなことが書かれていて(わたしが読むものが、このモチーフを扱うものが多いからだと思いますが)すごく目についてしまって。その居心地の悪さを忘れるために、酒を飲む、現実から目を逸らすために、あらゆることがどうでもよくなるように。このように、どうしようもない主人公なのですが、なんだろう、この透明感、瑞々しさ、どこにも属することができない孤独、それでも他者と、何かとつながりたいと思ってしまうこと、その寄るべなさはどこへ漂着するのだろう、その刹那さ。そして父ジョナサン・ダンテへの愛憎、敬意、怒り。
作中、ジョナサン・ダンテは、もともとは小説を書いていて、ハリウッド映画の脚本を書くようになり、そちらで売れっ子になってしまったので小説を書かなくなったという設定です。訳者あとがきによると、作中のこの親子の関係は、ほぼ実話に基づくと書かれています。語り手ブルーノがそのことを惜しむ場面がいくつもあり、ここが本当にいい。父の、作家としての才能を惜しみ、書き続けなかったことへの怒りの感情もあり、また尊敬し、誇りにもしている、その複雑さ、剥き出しの生の感情の発露がすごくいい。
父の夢は潰えてしまった。父にとってはまさに生きることそのものだった。彼が書きためた未発表の小説や本は、今後出版されることはまずありえないだろう。父が認められることはもうない。純粋で美しい言葉や夢を自らの裡に抱え込んだまま、父は永遠にこの世から去ってしまったのだ。神や人生に激しく立ち向かった父の嵐は収まった。父は真のアーティストにして、唯一無二の人間であり続けた。そのことに気づく者は誰一人としていないだろう。
(そんなことないよ! 認められてるよ! 東の果ての国で普及委員会までできてるよ!)そして、この続きもまた素晴らしいのでぜひ読んでみてほしいです。
エピソードとしては、やはり、本屋でしょうか。そういう状況であっても【本屋へ行く】、ね! 本屋があったら入るよね!! 本屋! 本屋!! 本屋息子! そして本屋父!! でかした!! よくやってくれた!! とくに出ないけど本屋父!! よくやってくれた!!!
本屋のシーンの直前に、この↑読書ノートに『『お父さん大好き!』にとどまらない何かがあるように見える』と走り書きしていました。その『何か』は、この本屋の場面から、じゅわじゅわと滲み出ています。その辺りの文章を引用したいのですが、や、やっぱり、まっさらな状態で読んで欲しい。ブルーノの父親への思いがぎゅぎゅぎゅっと凝縮されて、本当にこの本屋の場面は素晴らしいから……!
2023年秋頃にジョン・ファンテの『塵に聞け!』が新訳で出るそうで、この本屋の場面を読んだ時、このタイミングで読めて本当に良かった、と、(東京→大阪間の)新幹線の中で(旅のお供本でした)号泣しました。こうしてインターネットのつながりで、ジョン・ファンテ、そしてダン・ファンテを知り、その作品を読み、ファンテはいいと、こうして文章にして、どなたかひとりでも興味を持ってくれて読んでもらえたらいいなと思います。
そのジョン・ファンテ普及員会のかたから、ジョン・ファンテ作品は『飲んだくれダメ親父と厨二病の煮凝りみたいな息子がだいたいの作品で出てくる』と教えていただき。狂熱の夏を越え、この秋、ようやくジョン・ファンテを読みました。
◎『満ちみてる生』ジョン・ファンテ(栗原俊秀訳)
上記に書いたようにダメおやじと煮凝り息子ということで、わたし、てっきり、飲んだくれ親父がジョン・ファンテで、煮凝り息子がダン・ファンテだと思っていました。いやあー…… すごかったわあぁぁ……!
冒頭に、ハリウッドの映画会社が脚本を買うことに出版した小説の売れた部数は関係なかったというようなことが書かれていて、小説はそんなに売れなかったという軽い自虐的な文脈なのですが、ここがすごく印象的でした。最初に『天使は〜』を読んでしまったので、その出版された一冊の重さ、貴重さ、父ジョン・ファンテへの敬意、敬愛が、こう、胸にぐぐっと。
語り手は今度はジョン・ファンテ。LA在住の新進の脚本家で、妻ジョイスがもうすぐ子供を産む、と、いい感じの人生を、送って、送っ……、いる、ような、そうでもないような……。買った家のキッチンの床が抜けて、これを修理してもらおうと、レンガ積み職人の父ニック・ファンテを家に招く。ニック・ファンテは、やたらと孫!孫!男の子!男の子!と言うけど、列車の中でのこととか、すごく真っ当で、人間として正しいありようでは? すごくピュアなひとなんじゃないか、と思いました。笑う、怒る、拗ねる、感謝するなど、どれもとてもストレートに反応する。めっちゃいいひとなのでは? と。
「なんとかうまくやりますよ、ランドルフさん。どなたにも迷惑はかけません。この列車に乗っている立派な皆さま、尊敬すべき紳士淑女の皆さま。わたしは最善を尽くします」
と、初代ファンテ、列車に乗り合わせたひとたちにこういうことを言う。
これこのように、ゆきずりの乗客と仲良くなり、寝台車のスタッフとも礼儀正しくやりとりをして、普通にいいひとでは? などと思ったんですが、いやー、ホントに、さすがだ初代ファンテ、一筋縄ではいかない。
で。家の床の修理に来たのに、路線変更して初代ファンテは臨月のジョイスと一緒に暖炉を作り直します。ジョイス、ジョン・ファンテの奥さんで臨月です臨月。それもジョイスは付き合わされてイヤイヤ暖炉を作り直しているのではなく、割と自分から積極的に手伝っている。
「少しの砂でもじゅうぶんなんだよ、父さん。一度か二度、シャベルで砂をすくうだけで危険なんだよ」
「一度や二度なら、少しも身体に悪くない」(中略)
「頼むよ、父さん。ジョイスは僕の妻なんだ。体を壊したらどうするんだよ? ここはイタリアじゃない。ジョイスは力仕事に慣れていないんだ」
「ジョイスさんがお前の妻なら、そこにいるのは俺の孫だ。元気いっぱいの俺の孫だ」
この話の通じなさがいたたまれなかった。LAに来る途中の列車内でも、初代ファンテは、外食など贅沢だからと持ち込んだ食べ物を食べ、ジョン・ファンテは食堂車で食事をする場面がありまして。解説でもここは移民1世と2世の違いだと書かれていました。わたしはこういうのが本当にいたたまれない。どちらかがほんの少しだけ譲れば、と思ってしまう。初代が「じゃー、ご馳走になろうか」と言う、もしくは、ジョン・ファンテが「せっかくお母さんが作ったのだから」と持ち込んだものを食べる、とかさー……! たった一度の食事をそんなに譲れないもの?(暖炉の作り直しは、譲れ、譲れないではなくて、これはもう臨月の女性に何させるんだと)
などと思っていたら、もうひとり来た。ジョン・ゴンダルフォ神父、ジョイスの師だ。
「ええ、神父さま、分かっています。だけどキリストの復活は……」
「復活? 頼むよ、ファンテくん、ひどく単純な話じゃないか」
「そこの小僧は本を読みすぎるんです、神父さま。俺はずっと注意してきたんですがね」
わたし、小説を読むにあたり、キーワードが『わからない』なんですが。いや、『わかる』でもいいんだけど。このやりとり、三人のそれぞれひとつずつのせりふ、これがもう本当にたまらなかった。「分かっています」と言いながら、復活のことは納得できないジョン・ファンテ、復活を納得できないことが『わからない』神父、息子が本を読むことも、作家であることも『わからない』、わかりたくない初代ファンテ。この引用だけではなくて、神父が◯◯について話す、ジョン・ファンテが「わかります、でも◇◇は……」と言う、神父はそれを受けて、と繰り返し、もどかしい、噛み合わないやりとりが続いて、いろんなものを削られるような思いで読んでいました。
ジョン・ファンテは、「孫! 男の子!」という父からの圧力、臨月という大変な時期にカトリックに改宗する妻、そしてこの神父に板挟みになり、かつ、産婦人科の皆様にもいろいろとご迷惑をかけて、大丈夫? ちゃんと息抜きしている? 胃に穴空いてない? と心配していたんだけども。いやー、こう思ってしまうよね! 思うよね!というのがこの↓あたりでした。いやー、すごかったわぁあぁ……!
僕はバジルをヘッドボードの横木にくくりつけ、枕の上に落ちかかるようにした。横になると、甘く鋭い芳香が鼻腔を満たした。それは母さんの髪の匂いにどこかに似ていた。母さんの暖かな瞳が僕に向かって笑いかけた。僕は泣いた。
ジョン・ファンテが泣いた理由は、これはぜひ読んでほしいです。たくさんのものが、ここでどかん! と覆ったなあ。本来、これは言えないことではないかと(特に初代ファンテには絶対に聞かせられないだろう)。それをこんな大切なところで、えいやっ! と言ってしまう、その振り切れ方、すごい、ジョン・ファンテ、すごい。
◎『デイゴ・レッド』ジョン・ファンテ(栗原俊秀訳)
こちらも訳者あとがきから読みまして。このタイトルの意味の説明で、デイゴはイタリア人の蔑称だそうで、デイゴ・レッドはイタリア人が飲む赤ワイン、で、デイゴが蔑称なので、安い、低級な赤ワインという暗示だそうで。そう言えば『満ちみてる生』で、初代ファンテが赤ワインを飲んでいたなあ、と思い出しながら、こちらに取り掛かりました。
ジョン・ファンテがまだ幼少〜若い頃の短編集、なので、初代ファンテも『満ちみてる生』よりずっと若く、若いので、力(物理的)が、パワー(物理的以外の)が、若さが、ありあまっていて、そのありあまり加減が加減できず。読んでいるあいだ「初代ファンテ、ちょっと落ち着こうよ、ね」と何度も語りかけていました。
ジョン・ファンテが学校でミサの従者を務めたり、友達と喧嘩したり、野球をしたりする、マカロニを云々より、わたしは後半の四作の方が印象的でした。誠実さ、父へ、母へ、弟妹への(きっとまだ生まれていない子供達へも)。特に『神の怒り』かなあ、長らく離れていた教会、教義、それでも祈りの言葉が口から出てくる。
「きみの性根を、叩き直してやらにゃならんな」神父が言った。
「やめときましょうよ」僕は言った「頭から血が出てますよ」
「もっと利口になれ」神父が言った「この、ユイスマンスの出来損ないめ!」
「努力します」
神父はハンカチを取り出し、血の流れているあたりに軽く押し当てた。
「今は、話している時間はないんだ」神父が言った「病院に行かんとまずい。日曜日、きみはミサに来るんだ、いいな? きみと話したいことがある」
「努力します」ぼくは言った。
「努力したって仕方ない」神父が言った「来るんだぞ、いいな?」
「行きますよ」
神父は微笑んだ。
ルカの放蕩息子の例えみたいだ(ちょっと違う?)。この短編集の、当時のカトリックのありよう、イタリア移民二世としての屈託、生きづらさ、家族との関係、書かれたこれらを、どれも全部理解、消化するのは、わたしには無理なので、時間をおいて再読したいなあ。きっとまた別のものが見えると思う。この三冊もきっとあれだ、本としてページは全部読み終わったけれど『終わっていない』物語かと思います。
『天使はポケットに何もいれていない』『満ちみてる生』『デイゴ・レッド』、順に読んで、JファンテとDファンテの生きづらさの違いなど(Dファンテは移民三世としての屈託というのはほぼなかったし)あるのですが、キャラクターのチャーミングさ、優しい明るさの光、切なくなるような空気の透明感、三作品に共通している気がする。最初にJファンテとDファンテ、間違えて手に取ったことがきっかけでしたが、やっぱり本は時宜を得て読んでいるのだな。祖父、息子、孫と三代にわたり、かつ息子と孫が書き手であるという三冊の年代記を連続して読んだというのは得難い読書体験だったと思います。堪能。ファンテ普及委員会の会員であるヨルさんに心から感謝。ありがとうございます。