私の秘密基地が予想以上に興味を持たれている、と知ったのは、私がここで本格的に書き始めて、1週間が経過した頃からだ。
めちゃくちゃありがたい、と思った。いつぞやも何かの日記で話をしたような気がするのだが(どれだったか忘れた)、私は「見てくれている人がいることが、数字で分かること」と「その人が好意的に思ってくれていることが、コメントで分かること」に高いモチベーションを感じる。
ようは、自分が注目されていると嬉しい性格なのだ。お喋りインコのように、人間が見てくれると、なんだかいろんなことを喋ったり、歌ったりしたくなる鳥。それが私だ。
しかし、時折、臆病な自尊心と尊大な羞恥心に悩まされることがある。
日記を書いて公開してから、私はしばしば後悔する。「気分がころころ変わるのだから、あんな自分を縛るようなことを言わなきゃよかったのに」だとか、単純に「推しの話を出してしまった……ご本人や詳しいファンの方に怒られたくない……こんなこと外に発信しなきゃよかった」だとか。泣き言を言うようだが、私は常に自分に自信がないのだ。
それでも誰かと繋がりたくて、何かを書きたくて、共感して欲しくて、絵を描いたり、こういう日記を書いたりして、自己の内面を切り出そうとする。
どうしても後で後悔してしまうのは、伝えようとする自己の内面が私の中でぐちゃぐちゃになっているからだ。ここはすき、ここは許せない、ここは面白い、ここは気に入らない……その切り分けが下手くそで、言語化がなかなかできていない。文章だけ見ると「出来てるじゃん」と思われる方も居るかも知れないが、文章はその切り分けができたあとに作られているものだ。水面下ではもっと、データの塵のような形が形成されている。
掴めない雲をなんとかして掴もうとするように、私はエディターに向かい、思考の整理をする。これが所謂、デフラグメンテーションである。データの塵が溜まると、パソコンは重くなる。人間も同じで、何か心にモヤが溜まると気持ち悪くなる。それのキャッシュクリアが自然と出来るいきものなら良いのだが、少なくとも私は、それができない。落ち着かないのだ。
しかし、負の感情を撒き散らすことは避けたい。負の感情に寄り付くのは、ろくでもないものたちばかりである。極稀に私の旦那のように善性の存在も居るが――極稀である。それなら、その感情を浄化してやったほうが良い。
私がいつも自らを「天才」だとか「神絵師」だとか言ったり、自信のある様を見せたりするのは、本気でそう思っているからではない。負の感情に苛まれる私を救うためである。自らに言い聞かせ、奮い立たせ、心を生かすための一つの手段なのである。そして、私が愛すべき応援してくれる存在のため、私の作品を価値あるものと思ってくれる人のため、裾を握り締めて震えを抑えようとするのである。
例えそれが真実でなくとも、私はそうありたいので、私は自分のことをこう名乗り続ける。「私は己に高い価値を感じている」、と。
だが、時折、やっぱり落ち込むときは落ち込む。そういうときは、全力で落ち込んで、折った筆でまた書き始めるのだ。