井の中の蛙であれ

ひよこひよ
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 この三連休、大いにネガっている私なのだが、その原因が、「私が忙しくしている間、他の絵描きは研鑽を積んで、上手くなっている」事実が私の中で顕著になった、ということだった。それがものすごく苦しくて、羨ましくて。その悩みを解決させたくても、現在の私の持てるキャパシティ――資源や環境ではどうにもならないものだった。

 ニンゲンの形を取っている生きものには、井の中の蛙でないと輝けないものもいる。

 うっすら自覚はあったのだが、私はそのタイプらしい。褒められて嬉しくて頑張る、という場面は何度も何度もあったのだが、その後、己の立ち位置が全体の下の方であることを自覚して消え入りたくなることも多々あった。

 これが学校みたいな小さなひと括りであれば、どれだけ良かったのだろうか。ようは、己の立ち位置が誰かより優れていることが明確であることが必要なのだ。そして、胸を張ることができないと、立ち上がることもままならなくなる。

 うーん、これは絵描きとして致命的。モチベーションが上がらなければ、技術の向上は無く、技術の向上が無ければ、イノベーションは無く、イノベーションが無ければ、その先の評価も無い。

 人よりちょっとだけ好きで、人よりちょっとだけ得意だから、これまで、ここまで、やってこれたのだなあ……と痛感する。私は常々「私の見たい世界が見たい」と言う話をしているが、私の見たい世界とは、「私の見たいものの表現」だけでなく「私の見たいものを表現したものを見る人の反応」も含まれていた、ということになる。それは今のインターネット含めた世の中じゃあ、キツイんじゃないか?

 ここで「にげる」コマンドを押して、ぜーんぶやめちゃお! ……などということは出来るし、そろそろ、ここらへんで戦略的撤退を取るべきなのだろう。とはいえ、まだまだ「描きたい」すなわち「己の見たい世界が見たい」という気持ちが大いにあるので、どうにも諦めきれずにいる。

 これまでの私なら、ここで「こうしたほうが良いだろう」的な話をするのだろうが、今回ばかりは、どうにも無理だ。あと、ここで私が他人にアドバイスを求めようものなら、私には否定の言葉に聞こえてしまい、拒絶反応とさらなる落ち込みを引き起こしかねない。

 解決策なら、無くはない。情報統制だ。

 SNSっていうのは便利で、世の中の情報や同好の士の情報を簡単に入手できる。しかし、井の中の蛙は大海を知ってはいけない。無理に知ろうとしてはいけないのだ。蛙に海は横断できない。浸透圧の影響で、水分が抜けて、塩をかけられたナメクジのように死ぬ。だから、ミュートやブロック、ログアウトなどで、海に関する話を見ないようにする必要がある。できればこんなに苦労してないんだよ。海は綺麗だから、泳ぎたくもなる。

 しかし、海は怖い。溺れて死ぬくらいなら、井の中の蛙でありたい。海に出ても、浅瀬でちゃぷちゃぷ泳いでいよう。見たい世界は川や森にもあるのだから。

 ちなまないが、「山と海、どっちが好き?」と聞かれたら、海派。

@trhnmkc
夢を見て絵を描く鳥。なりすましではなく本鳥です。嘘か本当か分からないことや、取り留めもないことばかりを書きます。