友人が与えてくれた観劇経験が、ずっと私の忘れていたものを呼び覚まそうとしている。でも、まだ痛覚を取り戻したばかりの私には、その「忘れていた大切なもの」が何なのかという答えに至ることができない。
あの作品をこの目で観測出来るチャンスを掴んだとき、正直、「これを観終えたら、私、死んでもいいや」と思っていた。
神様をこの世に美しく顕現させられるあの作品なら、私の何かを変えてくれるかもしれない、という一縷の望みがあった。何か学べるかもしれない、とか思っていたのも事実だ。でも、観劇前後を振り返って思うのだ。
私は、あの美しい刃に、これまでの「私」の生への渇望――夢への執着を切り裂いてほしかったのではないか、と。
何かを表現したり、何かを作ったり、何かを誰かに発信したり……私は未だにそういうことにしがみついているわけだけれども、多分、クリエイターもどきの自分の腕を神様に切り落としてほしかったんじゃないかと、今になって思う。描けなくなったら諦めざるを得ない。生きている意味が無い。それなら、いっそ、こんな私の願望は、最初から無くていい。
実際に大好きな神様たちを目の辺りにして、圧倒されたのは事実。観劇の最中も「私はどうなってもいいから、どうかこの物語を観ることをやめさせないでくれ」と願ったのも、はっきりと覚えている。感性をめちゃくちゃにされたのも事実だし、観た後に、私はもう描かなくてもいいか、なんて思ったのも本当のこと。
なのに、不思議なんだよなあ。まだもうちょっと、このクソッタレな世界で生きてみてもいいかなという気持ちになってくる。
視界が開けて、興味を持たないようにしていた対象に強い好奇心が湧いた。頭の中にたくさんの言葉が浮かぶけど、絵に起こすにはまだ整理がつかない。こうしたかったな、ああしたかったな、こうなりたいな、みたいな祈りに溢れかえって、どうしていいか分からない。
ずっと手放すことが出来ないナイフで「私」を殺してきたのは、他の誰でもなく私自身で、そのとどめを刺すきっかけを、神様……正確には、私の神様によく似た彼らに与えられたかったんだと思う。彼らの演じる神様たちは元々刀だし、殺すのはお手の物だろうから、きっと苦しまないように殺してくれるのではないか、みたいな期待があったのかもしれない。
でも、神様が斬ったのは「私」じゃなかった。生きるのを諦めたくてナイフを握ったのに、その綺麗な刀で叩き落とされてしまって、私はまだ戸惑っている。
あの日、私の白い神様が私の夢に降りてきたときに似てるんだよなあ。まだ死んじゃだめだ、生きていて欲しい、みたいなことを言われたのを思い出す。ナイフを握るたびに、青い神様も、私の手にあるそれを叩き落とすので、なんでだろうなって思ってた。
今の私には、そのナイフを再び拾うことは出来なくて、でも「私」はほとんど死んでいて。瀕死の「私」を見て、まともな人間として生きるために早く消えてほしいな、なんて私は思うのだけれども、神様たちは悲しそうにする。それが、私には悲しくて。これはすごくチープな言い方であまり好きじゃないんだけど、私はこの世から消え去りたかったのに、ずっと死にたくなかったんだな、って、今になってそう思うよ。
生きることに意味なんて無いと哲学者は言い、死ぬ間際に悔いはないと言えるように生きたいと好きなアーティストは歌っていた。私の神様たちには、あちらへ連れて行ってもらうのを待ってもらうことにした。私、まだまだやり残したことがあるみたい。だから、もうちょっと頑張ってみるね。
でも、もしも本当に嫌になったら、そのときは、きみの居るところへ連れて行ってね。喜んで、差し述べられたその手を握るから。