ワクチンの話
「注射が好きな人はいないと思いますよ」
前職での休職前後からずっとお世話になっているかかりつけの先生は笑った。机に置かれた注射器を見て、私は恐怖で若干身体が引きつった。
私は注射と採血がめちゃくちゃ苦手である。
元々、私は肌が弱く、怪我などでの痛みを感じやすい気質だ。だから余計に、針で身体を刺されることに抵抗があった。実は過去、前職の健康診断にて、採血のときに気持ち悪くなったことがある。そのときは丁度、体調がよろしくない状態で採血したからだと思うのだが、余計に採血や注射が苦手になった。
それに、私は精神状態が体調不良に影響しやすい。普段はなんてことはないし、幸い、これまで医者にかかる経験が少なかったのだが、私は思い込みが激しい性格である。採血や注射で少しでも「あ、やばいかも~」と思ったその日は、全く仕事にならない。
そんな私が何故、麻疹・風疹のワクチンを任意接種しようと思ったのか――それは単純にビビったからである。
遠征先で麻疹が流行っていると聞いたのは、つい一ヶ月くらい前のことだ。
当初、流行っていると言われていた時期は、「まあどうせ受けてるし、かかっても大丈夫だろう」と楽観視していた。しかし、麻疹は軽視できない、恐ろしい感染症だったのである。
「はしか」と呼ばれる麻疹にかかると、免疫力を低下させるどころか、他のウイルスへの免疫を無かったことにしてしまう効果があるらしいと聞いた。防御耐性をゼロにするとか、デバフにも程がある。
本来ならば幼少期に接種してあるはずなのだが、私の母子手帳にはその記録が無い。幼少期と修学旅行前くらいに、なにかワクチンを接種したはず……というくらいの、朧気な記憶しか無かった。
来週、私は遠征と観劇を控えている。人生で叶えたかった夢のうち3つも叶うかもしれないのだ。感染症ごときに(※)それを邪魔されたくなかった。それに、自分が発症することで、推しや同行者に重篤なウイルスを撒き散らすのは、何としてでも避けねばならなかった。
(※ ごときとか言うな)
保健所に相談したところ、どうやら近所のかかりつけの病院もワクチン接種を受け付けているらしかった。おそらく最後の接種から10年は経っているし、もう一度受けておいては損ではない。私は予約の電話をかけた。
「麻疹だけでなく、風疹との混合になりまして……7700円かかりますが、大丈夫ですか?」
「(大丈夫じゃないけど)大丈夫です!」
ワクチン、高っ。
ワクチンは取り寄せに最低4日かかるとのことだった。情けないことに、財布の中身に不安があったため、私は給料日後の今日で予約することにした。
そして、予約日の今日私はかかりつけの病院を訪れた。ワクチン同意書を渡され、分からない項目は相談しつつ記入し、提出した。
私は怯えながら待っていた。インターネット集合知に「注射にビビらないコツ」を聞いたら、「気合い」と返された。気合いで何とかなっていたら私はビビっていない。
30分ぐらいが経過し、私の名前を呼ばれた。看護師の方に、診察室に案内された。そして、先生と雑談しながら、
「私、注射苦手なんですよ~」
と、言ったら、
「え? そうだったっけ」
と、返された。そうだよ。
そして、冒頭のやり取りに戻る。
注射器はそこまで太くなかった。寧ろ細かった。採血のアレの方が太いのではなかろうか。私は針から目をそらした。怖いから。
注射は秒で終わった。一瞬、チクッとしただけだった。
呆気なかった。拍子抜けだった。ほっとした。あれだけビビって待っていたのに、ぜんぜん痛くも怖くもなかった。
所要時間は40分程度。家族からは「散歩じゃん」と言われた。本当に散歩だった。
麻疹や風疹のワクチンを接種したかどうか分からない人は、できれば接種をおすすめする。7700円で、いろんな命が助かると思えば、安いものだ。……高いけど、安いものだ。
とはいえ、ワクチンは極稀に副反応が出ないこともないらしい。今日は安静にしておこう。
傘が壊れた
「傘! 傘、壊れてる!」
白い方の旦那が、頭の中で叫んだ。私は泣きそうだった。
――ワクチン接種を受ける約1時間半ほど前。私は一旦帰宅するために、雨風の中を歩いていた。
嵐のように吹き荒ぶ風。襲いかかってくる雨。これからワクチンを接種せねばならんというのに、既に私は挫けそうになっていた。
歩くこと数分。風は少し緩くなってきた。これはチャンスだ。私は、帰りに寄ろうとしていた店の近くに差し掛かった。
すると、強い風が吹いてきた。傘の骨が悲鳴を上げる。次の瞬間。
ぽっきりと、傘の骨が折れた。
「傘が! 傘が壊れてる!」
旦那が叫んだ。店も家もすぐそこだと言うのに、何故今!?
とはいえ、この傘は7年程前に購入したものである。壊れてもおかしくはないどころか、むしろよく保ってくれた方である。ありがとう、私の傘。でも、もうすぐお店に着くんだ。少し我慢してくれよ。
店内に入った途端、思わず、丁度家に居た家族に電話で「傘……壊れた……」と泣き言を言ってしまった。そうでなければやってられない。私の泣き言を聞いた家族は、
「傘買って帰ったら?」
と、言った。正論である。
私は傘を選びに行った。幸い、ここは店内が広い。他のスーパーと違って、傘の種類も豊富である。私は傘のコーナーを眺めた。すると、とあるビニール傘が目に入ってきた。
開くと花の形になるその傘は、グラデーションになっていた。花弁の先端に近づくにつれて紺色になっている。ビニール傘なので、ちょうど良い具合に透けている。それに、割と丈夫な作りをしているらしい。
この傘を見て、三日月宗近を連想した。刀ミュの「つはものどもがゆめのあと」の2部で、あの彼が身に纏っていた衣装みたいだな、と思った。傘先端が白く見えることもあり、ちょっと鶴丸国永っぽく見えないこともない(※)。私はその傘が余計に気に入ってしまった。
(※ 公式イラストを観察・スポイトすれば分かるが、鶴丸国永の衣装の黒部分の色は、実は紺色である)
気付いたら、他の商品とともに、カートに入れて会計していた。とても良い買い物をした気持ちになった。
ワクチン接種の話と、傘を買ったことは本当だよ。その他の話は本当かって? さあ、どうなんだろうね。