自分の感情をアウトプットして、ふと思うことがある。私が選ぶ言葉は、やたらと誰かの受け売りばかりだ。
どこかで聞いたようなフレーズをあたかも自分の言葉であるかのように着飾り、エンターテイナーのように振る舞っている。人によっては、私もきらきらと輝いて見えるかもしれない。それはそうだ。私は楽しそうな姿を見せたいと、愛するものを愛していると貫き通したいと、かくあるべきと努めているし、普段は本気でそう思っているからだ。けれども、ふと、私の中を覗き込んで思うことがある。私には、何も無い。
私の中身は、空っぽだ。
対して誰かに影響を与えられるわけでも、売れっ子の絵描きというわけでもない。それは何故か。私の中身が無いからだ。心の何処かで、私は自分のことをそう卑下していた。
昔の私は、自分の中身が無いことを認めたくなかった。だから、何者かになりたいと願っていた。意見を持っている自分は素晴らしい。物知りな私は価値がある。観察眼の鋭い人には、その私の姿が滑稽に思えていたことだろう。
まあ、未だに「何者かになりたい」という密かな気持ちは全く消えてくれないわけだが、最近は「私の中身は空っぽでもいいや」と思うようになってきた。
だって、無いものは無いから、仕方無い。というか、寧ろ無い方が良い。その器に負の感情を抱えておくくらいなら、空っぽの方が良い。その空きスペースを、好きなもので埋め尽くしたほうが良いに決まっている。
私の中身は空っぽだ。空っぽな心を無意識に補おうとした結果、気付けば、持続的空想世界である「夢の世界」が出来ていて、なんかいろいろ出来ていた。更に気付いたら、なんか住人が増えていた。
棲み着いた旦那曰く、夢の世界では、自由に過ごせて安心できる。だから、住み心地が良いらしい。
だったら、まあ、私の中身なんて無くていいか、と思うのだ。