私はしがない絵描きだ。体調不良で仕事を辞めて以来、無理をしない程度に会社で働きながら、家族と一緒に暮らしつつ、夢の世界の向こうに居る旦那(人ではない)を形にすべく絵を描いている。
私は人の思想を表現した創作物が好きだ。好みは広いと言えずかなり限定的だが、創作物が好きだと強く言える。なぜなら私は、二次元的でアニメタッチなイラストが好きであることや、物語を観ること、その世界や人物について考えることが好きなことに、強い誇りを持っている。だからこそ「これは私の好きなものなんだよ!」と高らかに叫びたいと思うし、常に仲間や同志を探している。
私は「自分の作ったコンテンツを見た人に、『私も何かを創作してみたい!』と思わせたい」と強く願って、絵を描いている。誰かに希望を与えるために一番大切なことは、自分が楽しんでいるさまを見せることであると思っている。以前、繋がりを持っていた男性フォロワーに言われた「自分が好きなものの方が、読んでいる方も面白い」という言葉に感銘を受けて、「評価などは気にしない。私は私の見たいものを描くんだ!」と自分に言い聞かせ、好きなものを描いている。
そして、私は絶対に「自分の絵が下手」だと言わない。これを口にすることによって、私自身の価値が毀損され、私の自傷行為によって傷つく人が現れるからだ。私はどれだけ自分が上手く描けなくとも「やっぱ私は神絵師だわ」だとか「私って絵が上手いな」と言う。私の姿を見て、虚勢を張っているように思えるかもしれない。それでも私は、私の絵を好きで居てくれる人のために、そして私自身のために「私の絵が好きだ」と胸を張るだろう。
私は常に「きらめき」を求めている。人が表現し生み出したものには、輝きが内包されているのだ。とはいえ、私にも好きな「きらめき」と、そうでないものがある。もしも、その「きらめき」が私の好みで無かったとしたら、きっと血のように赤黒いきらめきなのだろう。(好きな「きらめき」の話は、語りたい俳優の話をしたくなったときに取っておきたいので、ここでは割愛する)
きらめきを追い求める私だが、好みのきらめきを探し当てようとするとき、時折、つらいときがある。Xを見ていれば、悪意と正義が混在した情報ノイズが必ずおすすめ欄に現れる。他人を見れば、私よりも上手い絵描きや、または好みではないが秀でている者……私の劣等感を揺さぶる存在も居る。存在することが悪いことではないし、私が自衛すれば良いだけの話だが、私は基本、嫌な相手でも学べることは学びたいと思う質である。その理念が、時折、「羨ましい」と思う気持ちや「嫌だ」という嫌悪感などといった感情と相反し、私の胸を苦しめる。
目や耳、文字やビジュアル、二次元、三次元……様々な情報を取り込むたび、私の中に、いろんなものが溜まっていく。私は自覚しないままに、かなり溜め込んでしまう質である。これに気付くのに、二十数年かかった。私はどうやら、絵でも文でも、何かしらの形で発信し、他者と共有しないと気持ち悪さを覚える。旦那の言葉を借りると、そうしなければ「心が死んでしまう」らしい。
そんなわけで、この「しずかなインターネット」に小さな拠点を構えた。
ここでの私はありのままの正直な私である。コミッションをしている私でも、同人活動をしている私でも、公の場で取り繕った私でもない。思考を巡らせ、良くも悪くも筆を執る「私」しか居ない。私の生み出す作品や、表で高らかに話をする私とは別の、名乗ったハンドルネームや肩書に左右されない、取り繕わない私がここに居る。
これらの文章は誰にも読まれないかもしれないし、誰の役にも立たないかもしれない。あるいは、私の感情の発露ゆえに、誰かの負の感情を揺さぶってしまうこともあるかもしれない。けれど、もし、これらの文章も誰かの暇つぶしになれたら、もしくは共感してもらえたら、とても嬉しく思う。
欲を言えば、誰かが私の表現したもので救われてくれたら、と思うのだが……それはまだ高望みかな、とも思うのだ。