ちょっと忙しすぎて腰を落ち着けてパソコンに向き合うことが出来ないため、過去に書いた日記を公開する。まじであかん。やばい。
25を過ぎると自我が芽生える、という言説がある。私はそれに異議を唱えたい。
ここでタイトル回収である。
……はあ? 自我なんてあるわけないだろ。
そもそも、世間一般の言う自我とは何なのか。
じ‐が【自我】読み方:じが
自分。自己。
哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。⇔非我。
㋐心理学で、行動や意識の主体。自我意識。
㋑精神分析で、イド・超自我を統制して現実への適応を行わせる精神の一側面。エゴ。
(Weblio辞典より https://www.weblio.jp/content/%E8%87%AA%E6%88%91)
ざっくり言うと、多分、自我というのは、「私は私」と認識し、社会へ適応させるための精神構造のことなんだと思う。イドは本能とか欲求とかで、超自我が倫理観とか道徳心とか、そんな感じらしい。
なんだ、それ。
かの有名なフロイト大先生には申し訳無いが、全否定させてもらう。だって、私には、自我なんてものが無いんだから。
そもそも、私から見れば、世界は、私と、私以外で出来ている。私は私であることなど、生きていれば当然のことだ。だって、自我ってつまり、私の……自分のことなんじゃないの? それが目覚めるって、何なんだ。何を言ってるかよく分からない。
ぶっちゃけ、私は自分のことが未だにわからない。最近になって「私ってああだな」「私ってこうだな」を何かに残したり表現したりするようになったが、特に落ち込んだり、体調が悪かったりするときは、私は私を見失って苦しみがちだ。本当に消えてしまいたくなる。
自我は「もう一人の自分」のことだと、教科書で読んだ覚えがある。もう一人の自分、と言われると、過去に居た見えない友だちや、今居る白い方の旦那の姿を連想する。……うーん。確かに彼らは私の半身そのものだが、不思議なことに、彼らは彼らで、私にはコントロールできない強い意志を持っている。彼らもやっぱり、私の自我ではないような気がする。
自我は、感情のストッパーや調整の役割も担うらしい。本当にストッパーや調整をしてくれているのだとしたら、私は暴走する思いを抑えることができて、もう少し生きるのが楽になる気がするのだが、あんましストッパーがかからない。自我、本当に私にも実装されてる? 疑わしい。
それに、私を構成するものなんて、今まで歩んできた記録に残らない歴史というか、やってきたこととか、資格とか、作品とか、他人の記憶とか、コレクションとか、そういうものでしか無い。性格診断で「あなたはこうです」と言われて、「あーそうかも」と思ったことなんて、多大に自己形成に影響しているだろう。そう思うと、私の存在自体が幻のようにも思えてくる。……うん。余計に自我なんてあるわけないだろ、という結論に辿り着く。
……自我は、本当に己の中にあるものなのか? そう思うと、やっぱり私には自我が無いような気がするのだ。
もしかしたら、自我なんて人間が言い出した幻で、自分で自分のことが分からなくなるのが怖くて、「あ、きっとこれは私の自我なんだな」と言ってるだけなんじゃないか? 私は私で、それ以上もそれ以下でもないのに、「あ! 自我が目覚めた」って思うものなのか?
自分が分からないから、自分っぽい幻に「自我」という名前を付けただけなんじゃないか? うーん……いくら考えても、私の結論はここに辿り着いてしまう。ここにあるのは「私」だ。他の誰でも、なんでもない。だから、私は叫んでしまうのだ。
自我なんてあるわけないだろ!