これ観た

Trigonophorus
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キモい趣味を打ち明けるんですけど、私はTwitterでFFでもない人たちのアカウントを覗いて歩くのが結構好きで。

一昔前でいうネットサーフィンのSNS版ですね。さしづめ、マインドサーフィンといったところでしょうか。

何を目的としているのかというと、自分と似た感性の人、見聞きして気持ちのいい言葉や画像、ハッとさせられるような自分にない価値観に触れるためにやっています。

フォローなどなんらかの関係性を持ってしまうには摂取するのがきつい感情というのが往々にしてありますし、自分の言葉や思考に影響されて欲しくないと思う人が多くて、その距離感を選んでいます。

〜〜〜

で、この動画を観たのはですね、その観測範囲で「優しく平和な心で在りたいのについ誰かを攻撃してしまう」という人たちを見て思うところがあったからです。

それで、観てみて納得しました。

優しくなれない・在り続けられない人というのは、単純にモデルケースの学習が足りてないか、または防御を解けないほど心が縮こまってるんだなと。

「優しくされないと優しくできない」というのは、何も修羅のような世界を生きてる人に限りません。優しくはされていても、それに気付いたり素直に受け入れたりといった、「優しくされた自分」を許容できてない人も該当します。むしろこのパターンが多いんじゃないかな。

そういう人の心の中には大体、"間違った厳しさ"が内面化されている。「このぐらい出来て当たり前だから得意になるな、疲れるなんて言語道断情けない」「みんな苦しいんだからお前も我慢しろ、泣くな休むな目を背けるな」みたいなね。

それを最初に言った人間は確かにその人の過去に存在したかもしれないが、こういった存在と接触してしまうことでその思考を内面化し"穢れ"が移り、もうそんな人はすれ違って遠い過去なのにいつまでもその人の中に留まり精神攻撃をし続けることがある。

その結果、「自分は優しくされてはいけないんだ」「優しくされて安心なんかしたら、その隙に酷いことを言われて傷つけられてしまう!」という恐怖と緊張で張り詰め、防御を解けなくなってしまう。それが優しくなれない人の実態ではないかと私は推察する。

こういう人は、優しさがなんたるかを理解・判別することは既にできているので、モデルケースの学習よりも、優しくされ慣れる中で「私だって優しくされたって変じゃないよね」というチャンネルを開く必要がある。優しさのチャンネルですね。

この意識は結構人生に於いて重要なもので、「どんな人間にも優しくされる権利があるよね」という感覚と背中合わせですので、例えば自分より拙い人を前にした時、イヤミっぽさや演技っぽさのない自然体で優しい接し方ができるようになります。

人もまた動物なので、自分を狩り殺さんとする存在より打算なく柔和に接してくれる存在の方が安心します。つまり、コミュニケーションや人間関係の大事な下地なんですね。

なので、本文を読んだ「自分は優しくするの苦手だなぁ」「人が怖いなぁ」という気持ちに常に支配され思うように振る舞えず困ってる方がいたら、まずは貴方が防御を解ける場所を見つけたり、自分に許しを与えてあげるといいと思います。

安息の場所なんかない・誰も信用できない・自分なんか許せない、という人はユンヂチタイプ〜✌️貴方も苦労するわね🥺

そういう人はもう、自分が自分の味方・コロニーになってあげましょう。どんな時も自分を責め苛む心の声が、自分を労り鼓舞してくれる声になったら百人力じゃんね。