漫画『みいちゃんと山田さん』のことをblueskyにあれこれ書いたのだけど,一旦頭の中を整理して自分の考えをまとめるためにもこちらにも書き残しておこうと思う.(あとで無駄な部分を削ったり整理し直す予定です)
『みいちゃんと山田さん』についてのことが頭から離れない.本当に嫌な作品だ. あれは社会の「現実」を可視化したり問題提起したり,ああした障害を抱えた人たちと向き合いあるいはそうした人々とも暮らしていける様な社会を目指す様な作品でないことは明らかなんだけど,一番嫌なのは,あの講談社の編集者たちの散々な発言に見られる通り,読者を巻き込んで作中で中村実衣子(作中「みいちゃん」と呼ばれている」:漫画の登場人物に敬称はつけません)に散々な暴力を働く人々と同一の存在か,あるいは加担者,または共犯関係に仕立て上げてしまうかの様な仕立てになっている点だと思う.それで読者達にもその社会的環境を作っている当事者の一員なのだとの自覚を促すようなものであるならともかく,あと一話を残す(次回が最終話)ところまできていても,いまのところどうにもそのようには読めない. 少し「良心的」な人々が作中の中村実衣子の状況に心を痛めたり同情したとして,それが一体どんな意味を持つのか.それでさえ謎すぎる.
障害とされる特質を持つお子さんのいるある友人は,「せめて母親である私が生きている間だけでも何としてでも面倒を見てあげていかなきゃと決めているし覚悟もしているけど,私が死んでしまった後のこの子のことを思うと堪らない思いで」と言って泣いていた. そんな会話をした当時ぼく自身はまだ自分の持つ障害についてはとくにピンときていなかったけれども,かなり衝撃を伴って意識したのは20代になったばかりの頃に体験した上記の友人との会話に表れたもので,ぼくにとっての「リアル」とはまずそういうものだったし,それを思うとあの作品の作り手と出版社はしっかり批判された上それから逃げてはならないと思っている.
まあぼくなんかは,あの作品を世に出した様なひとたちは見下げ果てた碌でもない連中だと思って軽蔑しているけれども.
ほんとにこう,講談社のヤンマガ編集者達が動画で語っていたような「他者の不幸を見たい」なんていう欲求をもつひとがいる,という事実そのものに戦慄している.
詳しく言及したいのなら「読まずに批判するのもどうか」と考えて現在公開されている話は全て読んだ(次回最終話だそう)けれども,ぼくはただただひたすらにこころが痛かっただけで,ではそうした差別の問題や,実際にいる隣人としての障害とされる特徴を抱えた人々と自分自身がどう関わっていくのか,そのようなことを考える契機になり得る作品と捉えることは不可能だった.
現にその登場人物のあだ名が他者を蔑視し攻撃する便利な道具として使われているだけ.非常に悪質です.
知的障害にしろ精神疾患にしろ境界性パーソナリティその他障害とされているものの「表れ」にはとても多様なあり様があるのにも関わらず,ああした形で漫画の「キャラ」や「設定」として単純化・類型化して描かれてしまうと,実際に障害者を知らない人たちにまでそのイメージばかりが先行して植え付けられる結果になり,「そういうものなのか」「あーそうそう,こんなふうだよね」「あるある」みたいな印象ばかりを読者に与え強化することになりかねず,読解力に難のある人々やこうした表現が現実にもたらす影響などに想像力の働かない人々などによって,さらにその類型化されパターン化された「障害のあり様」がある種の戯画的な使われ方で広まるということを恐れてたのだけど,すでにその醜悪さが極端な形で広く出回ってしまっている.
そしてその作品の持つ「メッセージ性」(『みいちゃんと山田さん』公式声明から)とは一体何なのだろう.
では,この作品の抱える・批判されている問題を解決する,あるいは今後も世に出しても良いと社会的な合意を得られるためにどうすべきか,ということを編集部と作家は問われているはずなのだけど,作家のSNSでの発言などはそのまま放置した上編集部もアニメの製作委員会も声明を公表したのち黙ったままでいる.
これでは以下の『みいちゃんと山田さん』公式Xでの表明や
アニメ『みいちゃんと山田さん』製作委員会が出した声明も台無しだし,とても信用できたものではない.
ではどうしたら作品を世に問い,アニメ化するための社会的な合意が得られるのか,すでに作中に中心人物として登場する中村実衣子という登場人物の「みいちゃん」というあだ名がミーム化してSNSなどネット上でも実社会でも他者を差別的に嘲笑するような使われ方をしているその影響について,どのように責任を負うつもりなのか.
アニメ化以前にすでに問題が山積していて多くの人たちの議論も論点があちこち飛び火しまくってる状態なのがどうにも堪らない.
そんな中読んだのがこちらのアサダワタルさんのnoteで,
この2本の記事はどちらも必読なのではないかと考えている.
漫画にしろアニメにしろ,文章での注釈などをいちいち入れる余地などないのは当たり前で,その登場人物たちの特徴をどのような表象として表現するかとなれば,このアサダさんの記事にもある通り,どうしてもわかりやすさが優先されてしまい,単純化につながる.アニメ化ではそこに声と効果音,音楽,色彩などの演出なども加わるわけで,よりわかりやすく,単純で印象に残りやすいかたちにどうしてもなってしまう.
そうした単純化や類型化は漫画でのキャラクター化の時点ですでに行われていて,それにその効果として障害を持つとされる人々の「現実」に対する「理解を促す」効用があるかといえば,とてもではないけれどそんな効用はなく,むしろ逆の効果,過度な類型化に基づくスティグマ化の強化やそれに伴う差別構造の強化に容易につながり,作品としてそれら差別構造を抱えたままの社会の問題の解決に向かうような問題意識の提起とはなり得ない.
その上でアニメ化がどう実現できるかについて考えてみても,相当に難しいことではあるし,手間もかかる上どのように編集するか,とても困難な問題をいくつもクリアしないといけないのだけど,『みいちゃんと山田さん』,公式と製作委員会が口を揃えて「専門家の監修を受け」だの「メッセージ性を云々」などと強弁するほどに作品に意義があると考えているのだったら,しっかりした取材と専門家による監修のもと,監修者の名のクレジット付きできちんと作中にあの中村実衣子のとる行動の意味,周囲の人物の対処の仕方の問題点,福祉などへどう繋げるかなど動画でくどいほど逐一注釈をつけるぐらいやった上,登場人物に現実にあり得ない言動をさせることのないように描いて初めて最低限の正当化が許されるんじゃないかと思う.
でもそんなことまではどう考えてもアニメでは不可能だろう. せいぜいすぐにスルーされてしまうようなテロップをちょろっと入れてお茶を濁すか,最初か最後に注意喚起のための文言をいやでも目にするように挿入しておくか,程度で. アニメ化で専門家による監修をどのように反映させるのか,そんなお為ごかしは最初から言わないでおいてもらいたいものだ