ふと思い立ってスーファミのレトロゲーム『サイコドリーム』をSwitchでプレイした。昔のゲームらしい難しさと見づらさで目が爆発しそうになりながらも、世界観がちょっと好きで一気に全クリした。Switchの巻き戻しプレイ機能さまさま。それにしても昔のゲームは説明が不足している。なぜこの世界でこの男女が戦うのか、ゲーム内ではストーリーに関する一切の説明がない。文字要素は現在のステージやライフの状況を表すいわゆるUIに関わるものくらいしかない上にすべて英語表記だ。調べると、サイコドリームはカセットと同梱されている説明書内にストーリーが記されているらしい。つまり物語の根幹はゲームをプレイしただけでわかるようになっていない。プロジェクト規模的な要因によるものだろうが、それにしたって今ではなかなかないあり方だ。説明をしすぎていて、それでも説明が足りていないことを心配し続けているのが今のムードだから、この不足感が清々しく感じてしまう。ゲームに通底する視覚的共通言語をヒントにこのゲーム世界の要素をうすぼんやりと理解しながら進めていく。プレイヤーが自分の脳で補完する余地がすごい。というか本来ゲームというものは見立てから出発しているのだから、その度合いがいろいろあるのはまあ、当たり前か。と自己完結した。そして、ゲームカセットとそのパッケージを販売するという形で提供されていたゲームなのだから説明書にだけストーリーが書かれていたって問題ない。今ゲームのデータだけにアクセスされていることの方が当時からしたらイレギュラーなのだ。安易に昔と今を比較できない。でも、もう少し説明不足してみることを考えてみようか。