ぼんやりと生きてる

みなと
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なんとなく読み返してたらそんな言葉が浮かんだので勢いでタイトルにしてみる。意外といいかも。

人と話したいのに、人を信頼することが出来ない。大丈夫だよって言われても、その人の裏の顔(実は裏ではこう思ってたみたいなやつ)を知った瞬間、途端に信じられなくなる。いや、怖くなるっていう表現の方が近いのかもしれない。そこに「嫌われてしまうかもしれない」「嫌われたかもしれない」っていう恐怖は存在していて、それを完璧に払拭することは多分一生出来ない。

中学生の頃、親に「全員に好かれることは出来ないんだよ。どんなに努力しても、あなたを嫌う人は居る」と言われたことがある。でも確かに私はあの時、クラスの皆に好かれたかった。私と同じで全く話さない子の事が好きだと言ったクラスメイトが居て、話さないっていう条件は同じなはずなのに私と彼女の何が違うのか本当に分からなかった。どれだけ悩んでもその答えが見つからなかったから、毎晩風呂場で家族に気付かれないようにひとりの空間でずっと泣いていた。私にもその好意を、人として抱く純粋な好意を向けられたかった。ひとりの人間として好かれたかった。

多分、それは今も変わらない。でもやっぱり私は自分を表現することが苦手で話もしないから周りの人が私に気を使っているのも分かる。でも同じように接してもらいたい。たわいのない会話をして笑い合うような、そんなありふれた関係にずっと憧れている。多分それを私は「理想」、今在るこの姿を「現実」と呼んで、無意識にその差に苦しんでいる。「理想」に近付く方法はただひとつ。私が自分を表現することだけど、本当の私を観てくれる人は居るのだろうか。そんな恐怖がずっと住んでいる。だから高校までの友達に会った時下ろした姿じゃなくて髪を結んだ姿で現れるのだろう。「変わったね」じゃなくて「変わらないね」って言ってもらいたい。その言葉を聞ける間は、少なくともその人達は私の元から離れて行ったりはしないだろうから。