正しくありたいという欲

つなまよ
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2日目だよ。私は趣味で創作の文章を書いてるのだけども、正直言って全然やる気が出ません。元々活字とは縁遠い人生を送ってきたこともあってですね、本は苦手だし、特に縦書きの文章は全然思うように読み進められない。2行くらいで折れてしまう。物語でもエッセイでも教科書でも。でもこれって当然ながら文章側に原因があるわけではなくて、自分が“読む技術”を身につけられていないだけなんですよね。なので訓練でなんとかなるだろうと思っている。今のところ努力はしてないけど。話が逸れましたが、そんな感じである日突然文章を書きたい!と思ったのだけども、そもそも書くという行為に馴染みがあんまりないので、PCの前に座るのも苦労する。しかも趣味だし、別に気分じゃないときは書かなくていいだろうと思ってるので、そうなると年単位で書かなくなる。でも書きたい。これだから人間ってやつは!というわけで、“ひたすら文字を打つ”ことでやる気スイッチが入るのではないかという期待で今、これを打っています。ある程度ダラダラ打って、なんか集中力出てきたんじゃない?今ならいけるんじゃない?ってところですっと創作の方に切り替えたい。そううまくいくのだろうか。物は試しです。

タイトルの話です。昨日の記事で「正しくもないし間違ってもない」という言葉を使ったんだけど、改めて考えてみたらそもそも「正しくありたい」みたいな感情がないなって気づいた。ここで言う正しさというのは“正解・不正解”のことでもあるし“正義・悪”のことでもある。学校のテストはもちろん高得点が取れれば取れるに越したことはないのだろうけど、そういう正答が定められている状況の話ではなくてね。あくまで生き方というか、人として的な部分ですね。正解の方がいいよね、ってことは多いよね。例えば社会人なら最低限日本語の使い方や文法は間違っていないほうが相手方に余計なノイズを与えないだろうし、家電だって取説を読んでメーカーが定めた正解の使い方をすれば無駄に寿命が擦り減ることもない。でもそれって結局「正解」の先に自分へのメリットが存在するからで、「正解であること」自体が目的じゃないわけです。なので正解だろうが不正解だろうが、あまり結果が変わらない状況においては全然どっちでもいいや、って思うし。誰かにそれ間違ってるよ!と教えてもらっても、あっそうなんだで終わり。正解じゃなかった自分に対してマイナス感情を持たないほうが生きやすい。人間みんな正しかったり間違ったりするわけで、生まれてから死ぬまで全ての選択肢で正解を選び続けるなんて無理だし、そうあるべきだとも思ってない。間違った結果の責任が自分で取れるならそれでいいんだと思う。とはいえその「責任を取る」が一番難しいところではあるので(できれば取りたくないし)、やっぱ不正解よりは正解の方がいいのかな。あれ、堂々巡り感が出てきたぞ。まぁ、こだわりすぎる必要はないよねってことです。だから他人がなにか間違った知識を持っててもね、正解を教えてあげなくちゃ!みたいなのも全然余計だと思う。関係ないし…いや関係あるなら(その間違いによって直接自分が被害を被るなら)そりゃ正さないとだけど。あーSNSの場合はどうかな。その正しくない知識が拡散されちゃう状況だからね。それによって誰かによくない影響が出ると想定されるケースは別かなぁ。そうなると今度は、SNSで得た知識を鵜呑みにするのってどうなの?っていう別の議論のネタが浮かんできますけども。考えることがたくさんあって楽しい。私にとって思考は娯楽なんだな。明日もなにか、書けたら書きます。